愛あるみなさま、こんにちは!
サトヒです。
ここまで、エゴの本質としての「罪悪感」や「怖れ」についてだったり、エゴがどのように私たちの現実に現れてくるのかについて話してきたわけなのですが


今回は
「結局のところエゴという存在と切り離せない私たちは、一体どうエゴと付き合いながら生きていけばいいわけ?」
というお話をしたいと思っております。
エゴの視点:世界は罪悪感と怖れにあふれてる
まず始めに、軽くおさらいをすると…
・エゴの本質は「神」や「愛」といった一元的な存在からの分離意識である
・私たちは分離している(=神を攻撃し、神から離れた)という幻想が、エゴの原点である
・そのため、エゴは「罪悪感」と「怖れ」をベースにできている
・エゴ視点で見る世界は、常にこの二つが色濃く投影される
という性質がエゴにはあるらしい、という前提でお話しを進めております。
なので、エゴの簡単な見分け方としては、日常の中で「罪悪感」や「怖れ」を感じたならば、それは「私たちが今、エゴの視点から世界を見ているよ」というサインってことになります。
罪悪感や怖れというのは、自罰または他罰的な感情がつきものなので、雑にまとめてしまえば
「自分がいい気分でいられない時」
というのは、あなたがエゴと同一化しすぎてる時と言っても過言じゃないと思っています。超ざっくりですけど。
本当は“つながった存在”であるということ
心理学でも、氷山で例えられますが
私たちの意識は本来、とても深いところで“すべてとつながっている”といわれています。
けれど、日常で私たちが認識できているのは、海面に浮かんで見える氷山の一角のような部分(顕在意識)だけですが
エゴはその一角として、「私は他とは切り離された、個別の存在である」という感覚を持っているんですね。
でも、本来の私たちはもっと深く、もっと大きなものとつながっていて、そこには優しさや安心感のような“愛”のエネルギーがあります。
その愛のエネルギーを神的存在とするならば
私たちは、「神という大きな身体」の構成要素とも言えるのですね。
あなたは手の中指かもしれないし、私は足の小指かもしれない。
でもどちらも、神様の一部であり、優劣はないわけです。
だけど、私たちの奥底で本当はつながっているということは、認識できる意識上では知覚できないわけですから
あなたが手の中指で、私は足の小指で、全く別の存在であるという認識から完全に離れることはできず
そこから、 「上下」「勝ち負け」「正しさと間違い」といった二元的な世界を生きることになります。
でも前述の通り、本来は「 神という大きな身体」の構成要素として等しい存在なのが事実なのだとすれば
エゴが見せる二元的な世界は、ただの“幻”と言えるのです。
私たちの現実が実は「幻」であるという話は、仏教の世界でも言われていることですね。
気づきの鍵は「体感」
それでも、私たちはエゴを通してこの世界を見て生きているわけなので
日常の出来事からで罪悪感を抱いたり、怖れに飲み込まれたりするものだし
そういった苦しみを“現実”として感じているからこそ、生きづらさを感じるわけですよね
たとえば私は、夫に子どもを任せて自分だけ遊んでいるとき(笑)とか、やるべきことを後回しにしてしまったとき、胸のあたりにチクっとした感覚がやってくるのですが
その体感を感じたくなくて、思考がぐるぐる動き出します。
「私がちゃんとしてないからだ」
「もっと完璧にやらなきゃ」
「このままじゃ見放されるかも」
そんな風に思考が感情を巻き込み、自分を責めたり、誰かのせいにしたりして
気づいたときには感情の嵐に飲み込まれてしまうこともあるわけです。
だからこそ、大事なのは、最初のチクっとした体感をなるべく見逃さないことなんだと思うようになりました。
そして、自分の体感と自分の思考パターンの癖を意識してみることも重要です。(私の場合、罪悪感は胸のあたりの苦しさとして出ることがわかりました)
そうすることで、自分の身体に出る反応から
「今、罪悪感が来てるな」
「これはエゴが感じてることなんだな」
と気づけるようになり、ほんの少しではありますが、自分とエゴのあいだに“隙間”が生まれるようになるのです。
そうは言っても、感情的反応が強すぎた場合は、それがエゴとかエゴじゃないとか考える余地もなく
「ぎゃーーーーー!!!!!!」
ってなるのは人間の性ということで…(苦笑)
まずは、そんな自分にダメ出しせずに、気持ちが落ち着くのを待つのも大事なことです。
エゴにダメ出しするのもエゴなのでね…!!!(ややこしいな!)
聖霊の視点:愛され、守られ、赦される世界
とはいえ、これもまさに言うは易しの典型なのは重々承知でして、一人ではやっぱり難しかったりもする。
もちろん、そういう時こそカウンセリングを受けるのも良い選択肢なのですが(手前みそ)
「もっと優しい視点で自分を見られるようになりたい」と思ったときは、“聖霊の視点”を思い出してみるのも一つの手です。
これは奇跡講座で出てくる言葉なのですが
“神様の愛とつながっている視点”
であり、現実的な表現で言えば
“自分に対して受容的で温かいまなざしを持つ”
ことでもあります。
自己受容や自己肯定が大事というのはよく言われる話で、自分でもあれこれ頑張ってきたけど
どうしても自分ではそういう視点を持てないんじゃー!!!
という人も多々いらっしゃると思うのですが
奇跡講座では、聖霊の視点はエゴと同一化した状態で持つことは不可能(!)と言われていて
私たちにできるのは、ただ
「そういう視点を持ちたいです」
と願うだけなんだそう。
「求めよ、さらば与えられん」という聖書の言葉がありますが
これは、私たちが自分の意志で“望む”ことで初めて、愛のサポートが届くということでもあるのでしょうね。
なので、自己受容や自己肯定ができなくて苦しんでいる人たちがいるのであれば
そういう視点が持てるように祈ってみてください!というのが、実は答えだったりするらしく…
私自身、自力でどうにかしたくて長年四苦八苦していたので
え?神様に頼むだけで良かったの…?
と、ちょっと肩透かし喰らったりもしますけど…
信じるかはあなた次第、な話ではありますが、一つのやり方として頭の片隅に置いておくのも良いかもしれません。
どうせ夢なら、どんな夢を見ましょうか
結局のところ、この世界はエゴが見せている“幻想”なのだとしたら
私たちはどんな幻想を見たいのかを、自分で選んでいいはずだし、選べるはずなのです。
それが、引き寄せの法則で語られる願望実現の話にもつながるわけなのですが
罪悪感や怖れに支配された世界より、自分が「これがいい」と思える世界を選ぶ意欲を持つ。
本来の私たちが、神という名の愛と深くつながった存在なのだとしたら
「神の子」としての本当の自分の力を使って、自分の人生をもっと楽しんでいい。
その第一歩が、「エゴをエゴとして認識する」こと。
そんな視点を持つために、自分の内側に意識を向けてみることから始めてみるのはいかがでしょうか?
- 今日一日、自分の中にふと湧いてきた罪悪感や怖れに、少しだけ意識を向けてみる。
- その時に感じる、自分の身体の感覚に留まってみる。
- そして、優しい聖霊の視点を持てるよう、見えない存在に委ねてみる。
それだけでも、自分とエゴの距離がほんの少しだけ広がって、心が軽くなる感覚を得ることができるのではないかな?と思います。
あなたの目の前に広がる世界が、より優しく、温かく、あなたが求める豊かさと幸せに満たされますように^^
ではまた!
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