愛あるみなさま、こんにちは!
サトヒです。
今朝、朝ごはんを嫌々食べるムスメに対し、切れてしまいました・・・。
「食べたくないなら食べたくないって言えばいいのに!!」と思ってイライラしたのだけど、彼女は彼女なりに最初から嫌なことを伝えていたのに、私が無視していたんだな・・・と、事態を振り返って反省しております。
彼女の食べたいものは、あいにく材料がなくて準備できなかったので(リクエストはたまごかけご飯・・・しかし卵がないという致命的な状況。)、私はあるもので作れるものを食べて欲しかったのですが、最初から彼女はそれに対し、「えー。。。」って言ってたんですよね。
でも、最終的には私のごり押しで「わかった」と言っていたので、それを「OK」と解釈しましたが、嫌々「わかった」と言っているだけなのだから、そりゃ食べるのも嫌々になりますわね・・・。(ごり押しされたら、嫌なものも嫌って言えないしね。)
そして、その嫌々な姿に切れられたら、子ども心には「なんやねん!」って感じですよね。「こっちは、最初から嫌だって言ってるだろうが!!」って感じです。
反抗期だったら、後ろから刺されてるわ、こりゃ。(汗)
こうやって、親は無意識に子どもにアレコレ押し付けて、子どもの意見を無視してしまうことがあるんですね。そこまで強い意思を持って、そうしたいと思っているわけではなくとも。
そして子どもは子どもで、このような、大人側からすると”些細なやり取り”だと思っているような出来事から、「私の気持ちはわかってもらえない」とか、「わがままを言うと嫌われる」とか、「自分らしさは受け入れられない」「私は愛されない」などという観念を積み重ねてしまうのでしょう・・・。
そして、その体験の中から生み出したセルフイメージは、その後何年も自分の世界を見る視点となり、自分の人生経験の土台となり、よりそのイメージを強化する行動を取り続けるよう、差し向けるのです。(経験談)
あな、おそろしや。
自分自身、超絶自己肯定感が低く、他人軸全開でかなり生き辛い思いをしてきて、その原因が母娘関係にあると辿り着いていたので、”母”としてのあり方には、色々思うところ(理想)があるのですが、なかなか理想どおりにはいきませんなぁ・・・。
逆に言えば、なかなかそう理想どおりに行かないオカン側の事情というのも理解できるようにはなりますね。
一言で言えば、やっぱりオカンも人間だった、ということに尽きるのですが。
子どもからすると、自分の生死を左右するオカンという存在は、あたかも「神」のようにも見えてしまうものなので、「オカン=ただのおばちゃん」という図式がなかなか心で理解できないものなのです。
そう、私はただのおばちゃんなのです。
そら、怒ることくらいあるわ!毎回理想どおり行くかい、おんどりゃー!!(と、さくっと自己肯定。)
自分に子どもがいるので、他の子どもと接する機会も多く、色々な親子を見ていますが、どうしても気になってしまうのが、厳しいお母さんと、親の顔色を伺う子ども。
そこが、必ずしも対になるわけではないのですが、やはりお母さんの子どもへの接し方は、確実に子どもに影響を与えるものだな、と日々感じています。
だから、私も子どもの自己肯定感を育てることを第一に考えているつもりなのですが、今日みたいに些細なことでぶち切れることもあります。
そう、いつもいつも完璧にできないのはご愛嬌・・・なぜなら
子どもの将来は「親」の自己肯定感で決まる
からです!
が、しかーし!!
同じように育てても、その子ども自身が持つ気質によって育ち方はそれぞれなんですよね。同じ家庭に育った双子ですら、全く違う性格に育つように。(もちろん、親の対応にも微妙な差があるのでしょうけど)
そう、その子自身の生まれ持った性質というのも、自分の考え方や性格を形作る大きな因子なんだと思うんですね。
で、私が年末に会ったお子さんが、いつもお母さんの影に隠れて、なんとなくお母さんの顔色を伺っているように見えたのが気になって。
何をやるにも、「これやっていい?」と聞いてからやったり。それに対する、お母さんの反応をよく見ていたり。
その子をよく知っている人に言わせると、お母さんが結構ドライなタイプらしく、あまりベタベタ構うタイプじゃないんだそう。なので、「寂しいんじゃないかな?」と言っていて。
よく考えてみれば、うちの子も結構顔色を見るというか、私の反応を気にしながら何かをすることが多いような気がして、なんだかちょっと心配になり、「顔色をよく伺う子ども」になる原因って何なのか気になって調べてみたところ、出てきたのがこちらのベネッセの子育てサイト。
こちらのサイトによると
子どもは無邪気と言われます。言いたいことをいい、やりたいことをする。わがままで言う事を聞かない…それはそれで大変ですが、ある意味子どもらしく、手を焼き、翻弄されているママも多いのでは。でも、一方ママに好かれたい、嫌われたくないという気持ちから、ママの顔色をうかがう子どももいます。おとなしい、いい子に多いようですが、
親がどうあろうと、子どもらしい無邪気さを発揮できるタイプもいれば、そうじゃないタイプもいる。それは先ほども書いたとおり、生まれ持った気質の差でもあると思います。あとは、親子の相性というのもあるかもしれません。
ただ、親の顔色をうかがうタイプの子は、元々内向的だったり、繊細だったり、慎重な気質を持つ子が多いみたいですねえ。
子どもがママの顔色をうかがうようになる原因のひとつが、愛情不足と考えられています。もちろん、ママは子どもを大事に思い、愛していると思います。しかし、子どもは叱られた拍子に、「自分は愛されていないのではないか?」と不安に感じてしまう可能性も。叱られて不安になることが多く、その結果、自然と行動する前に母親の顔色をうかがってしまうようになることがあります。
よく、子育て系のあれこれには「お母さんの愛情不足」という表現があったりしますが、もちろん愛情がないわけじゃないんですよね。
それがうまく伝わらないことの方が、私は問題だと思っています。
だから、子どもの自己肯定感向上のために大切なのは、「お母さん(もしくは身近な保護者)からのわかりやすい愛情」。
そう、大事なのは「わかりやすい」という部分。
今となれば、私の母だって、もちろん私を愛していないわけではなかったのだけど、その愛情を、私がうまく理解することができなかったことから、私は「愛されていない」と思い込み、自己肯定感を下げてしまったと思うんです。
うちの母は、あまりはっきりと愛情表現をするタイプではなかったし、元々子どもの扱いが苦手、ということを自ら言っていたこともありました。(それは、孫の扱いを見て納得しましたけど。)
愛情の伝え方と愛情の受け取り方のミスマッチ。ささやかな誤解が、時に悲劇に繋がることもある。
これって、人間関係あるあるですよね〜。
そういう経験があったからこそ、私はなるべく言葉や態度で愛情を伝えようと意識していて、「生まれてきてくれてありがとう」と寝る前に伝えたり、ハグしてキスして、しつこいくらいに、その存在に愛を注いでいるつもりです。
でも、その反面、罪悪感を乗り越えて不良母としての才能?本質?が開花しつつあり…
自分の好きなことばかりしてる気がするし、子どもの遊びにずっと付き合えないし、いつもご飯は適当だし、今日みたいにぶち切れることもある。
また、私がしているのは、自分自身がして欲しかった愛情表現であって、それが本当に彼女が「愛されている」と感じられる形なのかどうかもわからない。(もしかしたら、超迷惑がってて、わざとらしいとか、うそ臭いと思われて、逆に愛情を疑われてるかもしれないよね~。)
でも、私は私がそれでいいと思うやり方を信頼するしかないと思って、最近は受け入れてます。親も親として、自分の精一杯を認めてあげるのも大切だと思うから。
まぁそれが、親としての自己肯定感なのか、自己弁護なのかはわからないけど。(苦笑)
ちなみに、子育てについてめちゃくちゃ赤べこる(意味:共感しすぎて頭をぶんぶんする様)、弟子仲間あずあずのブログの神記事があるのでご紹介。
いっぱいいっぱい、めいっぱい安心して依存できる場所を与えることが、子どもが人を信頼し、伸び伸びと自立するための大きな力になる。そんなお話。
またもや、私が書きたかった本題からどんどんずれてきましたが(汗)、今日私が言いたかったのは
「顔色を伺う子どもは、元々繊細な気質を持つ子が多く、”いい子”になりやすい」
ということ。
「親の顔色を伺う」って、つまり他人軸の原型ですよね。
大人になって「他人軸」傾向が強い人というのは、小さい頃から習慣的に「親や周りの大人の顔色を伺う」ことが多かった人なのだと思います。
ある意味、そのやり方が、クセになっているわけです。
それはもちろん、大人からの庇護が必要な子ども時代を生き抜くための処世術だったかもしれません。でも、子どもはやっぱり親が大好きだから、親に愛されようと無意識に頑張っちゃうんですね。
そして、元々繊細な気質を持って、人の言動から敏感にその変化を汲み取れる子どもは、自然と大人の様子を伺って、相手が喜ぶような行動を選べちゃうんです。
そうやって、空気を読んだり、顔色を伺うことで、親に褒められたり、喜んでもらえるのを見て、ますます相手の期待に応えようと行動してしまう。
いい子が、どんどんいい子属性を強化していくザ・エンドレス・いい子ループ。
ここに「頑張り屋さん」の属性なんて追加されたら、向かうところ敵なしの天下無双。燃え尽きて灰になるしかない、地獄のデスロードに突入です。
大人の庇護を必要とし、愛を与えられなければ生きられなかった子ども時代は、周りの顔色をうかがうことが、史上最大の作戦として有効だったかもしれません。
愛されない(見捨てられる)ことが死を意味していた頃の不安が、本能的な死への怖れとして、心の奥深くに染み込んでしまっているのかもしれません。
だけど、あなたはもう大人になり、自分の面倒を自分で見られるようになり、自家発電で愛を補給することができるようになりました。
じゃぁ、もう「いい子」でいる必要なくね?それって、誰のため?
長年いい子をやってきた人にとっては、誰かの期待に応えないとか、相手を不機嫌にさせるような行動を取るのは、とても勇気がいることだけど、人間何事も「慣れ」が全てです。
どんなにざわついても、いつかは慣れる!全ては、慣れてないだけ!
さぁ、みなさま。どうぞ、ご唱和ください。お師匠様直伝(?)の「鬼畜生道」を!
「できないことをできなくて良い」
「無理なものは無理で良い」
「しなくないことはしない」
「やりたいことだけをする」
「敢えて見捨てる」
「わがままに振舞う」
「ダメなものはダメだと言う」
はい、あと十回!!
「できないことをできなくて良い」
「無理なものは無理で良い」
「しなくないことはしない」
「やりたいことだけをする」
「敢えて見捨てる」
「わがままに振舞う」
「ダメなものはダメだと言う」
いい子をやってきた人にとって「鬼畜生道」を生きるということは、「自分を大切にする」つまり「自分に愛を注ぐ」こととイコールです。いい子をやめれば、あなたはもっと自由になれるし、もっと自分らしく生きられます。
それは、まるで無邪気な子どものように。
とはいえ、私もまだまだ「いい子ちゃん」を気取ってしまうので、無意識にムスメに「いい子」の呪いを伝授しないためにも、上記お題目を唱えながら、ますます自分に愛を注ごうと思います!
ではまた。
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