【ココロノマルシェ】誰かと比べる気持ちに悩んだ時は

ココロノマルシェ

【自分の境遇を恨んで、他人の芝生が青く見える時】

嫉妬というのは、自分にないものと、相手にあるものを比べるから起こるものと言われています。

じゃぁ、自分にあるものと相手にないものを比べたら?

一言でいえば、「自己肯定感」ということになってしまうのですが、今までの経験も含め、それを経験してきた自分を丸ごと、「これが私で、これが私の人生」と認めてあげることが大切なのかもしれません。

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ココロノマルシェにご相談頂いた内容に回答しています!

自分の境遇を恨んで、他人の芝生が青く見える時
いつもいつも大変お世話になっております。 ココロノマルシェ出現頻度高めのサトウです。 こんなに送って大丈夫かなあと心配し...

いつもいつも大変お世話になっております。
ココロノマルシェ出現頻度高めのサトウです。

こんなに送って大丈夫かなあと心配しながら、常連入りを目指そうかと開き直りつつあります。

前置きはこれくらいにして、実は困ったことが…(だから相談にきてるんだろというツッコミ)

職場の人間関係というより広い人間関係のことで、私はどうやら自分の生い立ちにコンプレックスみたいなものがあるらしく、友達の家庭環境を聞いていると猛烈に羨ましくなります。

私の両親はケンカが多く(父が一方的に母を怒鳴る)、時にはそのケンカが行き過ぎて警察沙汰や母の帰省に至るほど。

ケンカの原因は母が変わり者なことで、「仕事ほっぽり出す」「片付けが苦手(常に物が床に置いてある)」「被害妄想あり」「心配性で過干渉な面があり些細なことで学校に電話する」「人間関係が苦手で地域の人とうまくコミュニケーションとれない」などなど…。

母の奇怪な行動の尻拭いをすることも度々あり、中学三年生のときに父が病死してから母とふたり(兄弟がいるのですが既に家を出ていました)実家にいたときはストレスがマックスでした。

そんな生い立ちからか、友達が「お母さんと買い物に行った」あるいは「お父さんからこんなLINEをもらった」等の話を聞くと羨ましくて悲しくて仕方ありませんし、友達の愚痴も「大変だねえ」と聞きつつも(甘い、甘すぎる!まだまだだ!)と厳しくなりがちです。

たまに心から「てめぇはまだマシだろーが」という声が聞こえます。でもそれを言ったりしないのは大なり小なり人それぞれ悩みがあり、私には人の悩みの大きさを計れないこと、そして確実に相手を黙らせてしまう(今後一切の愚痴を封じる)一手だと知っているからです。

それはあまりに厳しすぎるかと自分で思うため、心の中で留めてはいますが、その切り札を使ってしまいたくなるときがあります。

「羨ましい」「なんで私がこんな目に」「友達はいいよな」という気持ちが収まりません。どうしたらいいでしょうか。

(サトウさん)

「自分らしさ」をとことん追求する、ライフワーク研究家サトヒです!

”ココロノマルシェ出現頻度高め”と書かれていますが、私が回答させて頂くのは初めてかもしれませんね^^よろしくお願いします。

そもそも、最近はお弟子2期メンバーも加わり、これまで以上に皆様のご相談を意気揚々、気合十分に待ち構えておりますので、どんなご相談でも、何度でもウェルカムですので、お気になさらずです。

気軽な無料相談の場ですので、遠慮なく、殿堂入りを目指しちゃってください!

比較する気持ちは消えないものだし、消えなくていい

それはさておき、

>「羨ましい」「なんで私がこんな目に」「友達はいいよな」という気持ちが収まりません。

そうですね、これって人間として自然な気持ちなのだと思っています。

よく、私が回答する時に書かせてもらう話ですが、仏教で説かれる煩悩の一つに「慢」というのがあるそうです。

この「慢」というのは、他人と比較して思い上がることを言うらしいのですが、人間は根本的に誰かと比較して、自分のポジションを確認したくなる生き物なのでしょうね。

しかも、この煩悩は死ぬまで消えないほど根深いものとも言われます。

仏教が目指す悟りとは、煩悩が消えることなので、逆に「慢」が消えちゃったら、悟りを開いてこの世を卒業しちゃうかもしれません。(笑)

ということで、まずは誰かと比べてアレコレ感じてしまう自分を、そんなに否定しなくても大丈夫だよ、ということをお伝えしたいのです。

ま、嫌ですけどね。実際、いい気分がするものではないので。

ただ、感情を感じること自体が苦しいのではなく、実はその感情を自分でジャッジして、否定的に捉え、自己攻撃することが苦しかったりするものなのです。

なので、素直に浮かんだ感情をこじらせないためにも、自分に対する否定的な気持ちは早めに手放してあげた方がいいのではと思っています。

「にんげんだもの byみつを」

じゃないですけど、人間だから仕方ないことって、きっとたくさんあるのだと思います^^

サトウさんのように、向上心もあって、愛情深くて、よりよく生きたいと真剣に人生と向き合っている方は、自分に対し「こうありたい」という思いが強くなりすぎて、そうなれない自分を否定してしまうことがあるんですね。

でも、そもそもその悩みを持つということ自体が、真剣に生きている証であり、もっと良くなりたいという気持ちの表れなのです。

そんな「頑張っている自分」に目を向けてあげることで、少しでも肩の力が抜けるのではないかなぁ?と思うのです。

エベレストに比べたら、どの山も低く感じるもの

>職場の人間関係というより広い人間関係のことで、私はどうやら自分の生い立ちにコンプレックスみたいなものがあるらしく、友達の家庭環境を聞いていると猛烈に羨ましくなります。

サトウさんほど、過酷な環境で育ってきた方たちからすれば、他の人の悩みがちっぽけに見えるのは当然のことでしょうし、「その程度で悩むなや!!」と厳しい気持ちが出てしまうのも当然なんじゃないかと思うんですよね。

例えば、人生はよく登山に例えられますが、エベレストを登ったことがある人が、天保山(標高4.53メートル)でひぃひぃ言ってる人を見たら

「あ、うん、初心者にはね、大変…かもね?そうかもね?」

という感想しか抱かない、いや、抱けないと思うわけです。

しかも、自分がエベレスト登頂のために過酷な準備をして、めちゃくちゃ苦労して登って、登山中に死ぬ思いも何回もして、ようやく登り切った人だったら

「こちとら、決死の思いでエベレストを登り切ったんじゃい!!その程度の山(丘!?)で、何をひぃひぃ抜かしとんねん。甘えんなや!!ケツの穴に手え突っ込んで、奥歯ガタガタ言わせたろか!!」

と、ちょっとした憤りの気持ちすら覚えるかもしれません。

そう、つまりサトウさんはエベレストを決死の思いで登ったアルピニストなのです。しかも、まだまだ次の山(キリマンジャロあたり?)を目指しているところかもしれません。

そんな人が、近所の丘すら登れないような人の愚痴など、聞いていられるでしょうか。

「そういうのは、よそでやってくれ」

率直に、そう思うものではないでしょうか。こっちだって、暇じゃないんですから。

>たまに心から「てめぇはまだマシだろーが」という声が聞こえます。でもそれを言ったりしないのは大なり小なり人それぞれ悩みがあり、私には人の悩みの大きさを計れないこと、そして確実に相手を黙らせてしまう(今後一切の愚痴を封じる)一手だと知っているからです。

>それはあまりに厳しすぎるかと自分で思うため、心の中で留めてはいますが、その切り札を使ってしまいたくなるときがあります。

まぁ、そうですね。天保山を前にして、ひぃひぃ言ってる人に対して

「いや、それ標高4.53メートルだから」

と言い放ち、現実を突きつければ、「馬鹿にされた」とやっかみを感じる人も出てくるかもしれません。

「自分はエベレストに登ったからって、調子乗りやがって」

そんな風に言い出す輩さえ現れるかもしれません。

なので、切り札を使わずにとっといているのは、コミュニケーション的に賢明な判断かと思います。そもそも、サトウさんの愛情深さでは、なかなかズバッと言い放つのは難しいんじゃないかと思いますが^^

ただ、感じてしまった気持ちを無くすことはできないので、イラっとした気持ちは、素直にお恨み帳やデスノートに書き殴るのが良いかもしれません。

そもそも論ですが、”愚痴を聞いてあげる必要ってあるのかな?”というところも気になります。

もしかしたら、どこか相手に合わせて「人の話は聞いてあげなければいけない」とか「人の悩みには真摯に寄り添わなければいけない」というルールを発動させている可能性もあります。

そうすると、どうしても相手のペースに振り回されるのでしんどくなりますね。いわゆる、「他人軸」という状態になります。

そのしんどさを我慢していると、どうしたって愚痴を言う相手に牙を向けたくなるものです。

もちろん、自分の心に余裕があって、「人に親切にしたい気分~♪」とかいうのであれば、「自分軸」で相手の話を聞いてあげるのはOKなわけです。

嫉妬は、自分にないものと、相手にあるものを比べるから起こる

ということで、具体的な対処法としては

① 比較する気持ちを悪いものと断罪しない。にんげんだもの。

② 愚痴を聞いてあげてもいいと思わない時は、無理して愚痴を聞かない。そして、それに罪悪感を感じなくて良い。(つまり、鬼畜生になる)

③ 自分はエベレスト登頂者としての自信を持ち、絶対王者として君臨する。

というところかと思いますが、いかがでしょうか?

③が「???」となるかもしれないので補足しますが、サトウさんがご自身の育ってきた環境に対してコンプレックスを抱いてしまうのは、そこから得たものを、自分で受け取り切れていないから、だと思うのです。

しつこく登山に例えるならば、エベレストを登る辛さの方ばかりが記憶に残っていて、頂上で見た景色を忘れてしまっている、といった感じでしょうか。

そもそも論ですが、きっと他の人では、その家庭環境を生き抜けなかったのだと思います。

天保山でひぃひぃ言う人に、エベレストは登れませんよね?しつこいけど、そういうことなんです。

サトウさんが、家庭環境で生き抜いてこられたのは、そもそもがサトウさんの持つ生命力であり愛の強さのおかげです。

きっと、たくさんたくさん嫌なことがあったと思います。周りと比べて、普通じゃない事ばかりだったかもしれません。

平和な家庭の子どもなら、味わうことのない苦労ばかりを強いられてきたかもしれません。

そんな過去で味わった、未だ消化できていない苦しくて辛い気持ちが、周囲へのうらやましさから自分の心を守ろうとして、周りをある意味下に見ることで安心させようとしているのかもしれません。

でも、そんな辛い経験を山ほど体験しながらも、ここまでまっすぐに生きてこられたのは、サトウさん自身の価値や魅力故の結果なのではないでしょうか?

それを、もっと見てあげてもらいたいんです。

比較や嫉妬で悩むのは、自分の価値を見落としているからだと思っています。

嫉妬というのは、自分にないものと、相手にあるものを比べるから起こるものと言われています。

じゃぁ、自分にあるものと相手にないものを比べたら?

相手のことなんか、全く気にならなくなると思いませんか?

一言でいえば、「自己肯定感」ということになってしまうのですが、今までの経験も含め、それを経験してきた自分を丸ごと、「これが私で、これが私の人生」と認めてあげるって大事なことなのかもしれません。

今すぐに、手放しで愛することができなくても、いつか「こんな自分って悪くないじゃん」と思うことができたなら、そんな自分の人生を、愛をもって振り返り、「愛すべき自分の人生」と大切に思うことができるようになるのではないかな、と思うのです。

どうぞ、ご自分の生命力と愛の深さに、自信を持ってくださいね。

サトウさんがこれまでの人生で経験してきたこと全てが、いつかサトウさんの人生をより輝かせるものだと気付けることを祈っています!!

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