「諦め」と「手放し」の違い論:結局は、どちらも腹を括って「今の自分」で生きていくことを受け入れること

引き寄せの法則と潜在意識

愛あるみなさま、こんにちは!

サトヒです。

気付いたら、梅雨になるわ、夏至は終わるわ、あっという間に夏に近づいております。

今日は割と涼しいので良いですが、これからどんどん暑くなって、もはやマスクなんてしてられるか!って状況ですけど、どうにかならないものでしょうかね。。。

個人的には、周りに人が密集していなければ、マスクなんてしなくてもいいんじゃないかと思うんですけど、日本人の和を尊ぶ精神…、もとい、長いものには巻かれたい精神によって、ついつい空気読んで周りに同調したくもなっちゃうもんですけどね。

(周りがしてたらする、してなかったら外す、みたいな)

結局、日本人に足りてないのは「自分軸」意識ってことなのか!?

「何のために?」という本質的な行動の目的さえ忘れなければ、もっと堂々と自分の行動に責任と自信を持てるような気がする…。

そして、「自分が自ら選んでそうしているのじゃ!」という確固たる芯というか、自信のようなものを持てれば、他人の目も気になりにくくなるのかもしれませんね。

つまるところは、ちゃんと自分の頭で考えろってことか~。あ、それが「自分軸」ってこと?(なんの話だ)

閑話休題。

さてさて今日は、永遠の課題ともいえる「諦め」と「手放し」の違いについて、思うところをつらつら述べたいと思います。

私は20代の頃、「復縁」を目的に”引き寄せの法則”を学ぶ流れになったのですが、まだ引き寄せを願望実現のための最終奥義的に捉えていた時は(今は、それよりもっと本質的な世界の仕組みのように感じております。)

世に存在するありとあらゆるメソッドを、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しては、結果が出なくて悶々とするということを繰り返しておりました。

そんな引き寄せメソッドの中でも、大きなカギを握る「手放し」。

どういうことかというと、一言でいえば「願望は忘れた頃に叶うものだから、願ったら放っておけ」というもの。

これがさー、まあ難しいわけよ。

だってねぇ。。。

復縁だろうが、恋人だろうが、結婚だろうが、子供だろうが、金だろうが、仕事だろうが、家だろうが、車だろうが、ステータスだろうが

どれもこれも、「これが欲しい、のどから手が出るほど欲しいいいいい」と思うからこそ、方法論として「引き寄せの法則」を採用しているというのに

忘れろ…だと…?

だって、引き寄せを頑張るのは、願望ありきじゃないですか。(というか、そもそも引き寄せは頑張るものではなかったというのが正しいのかもしれないけども。)

願望があるからこそ、それを手に入れるべく頑張れる。それはある意味、目標や目的でもある。達成すべき何か。

なのに、その目標や目的を手放したら、帰る家を見失って広大なジャングルを彷徨う、方向音痴な雄ゴリラのようになってしまう。

なんていうか、ゴールに向かう情熱を保てなくなるような気がする。

そもそも、その願望への粘着質な執着心こそが、願望を叶えるための行動へと自分を向かわせる、モチベーションでありエネルギーとなり得ているというのに。

そんな核となる思いを手放したら、一体どうなってしまうというのか!?

試合を終えた明日のジョーのように、全身白抜きの存在になってしまうような気がしてならない。(つまり廃人であり、存在の死である。)

結局、自分が願望を持ち続けなかったら叶わないんじゃないかという”怖れ”があるから手放せないわけですけどね。

そしてそこには、願望を叶えていない自分には価値がないという”怖れ”も多分に詰まってる。

だから、願望に執着する。

今じゃない何か、自分じゃない誰かになるために、何かを手に入れたいと必死に願ってしまう。

だから、忘れた方が叶うと言われても、忘れたらそのまま忘れてしまって、無かったことになるんじゃないかというのが怖い。

だって、「無かったことにする=諦める=努力をやめる=叶わない」という無意識の図式が頭の中にあるから。

そして、「叶わない=今の自分には価値がない」という思い込みもあるから。

つまるところ、今の自分のままでいること自体が怖いのかもしれない。

だから、願望を手放すってすんごい難しいことだと思うんですよね~。

特に、これまでバリバリの目標達成志向で生きてきて、それなりに自力で結果を出してきたような人には。

「手放す」=「諦める」で、その言葉の響き自体が「負け」とか「敗北」のような感覚を感じさせるのかもしれません。

それって、死ぬまで白旗を上げたくないガチな自立系のみなさまには、屈辱を感じる状況(切腹事案)なわけです。そりゃー、ますます手放せないわ…。

で、今日のタイトルにもある「諦め」と「手放し」の違いなのですが、「手放し」はもっと前向きなもので、「諦め」とはちょっと違うと学んだことがあるのですが

最近の私の感覚的結論としては

どっちも同じやん!!

です。

どう表現しようと、諦めるのも、手放すのも、根本は一緒ですよ。(個人の感想です。諸説あります。)

言葉のニュアンスがちょっと違うように感じるだけで。

もちろん、ネガティブに捉えれば「諦める」、ポジティブに捉えれば「手放す」。

受動態と能動態の違いみたいな感じ?「手放す」は自分で選んでる感じがするので、コミットメントに近いのかもしれませんが。

でも、どちらも結局は、「自分が絶対にこうでなくちゃいけない」という思いを捨てて、そうなっていない今の自分を受け入れることには変わらないと思うのです。

つまり、腹を括って「今の自分」で生きていくことを受け入れることです。

その結果、願いが叶うかもしれない、叶わないかもしれない。

だけどもうその時には、結果なんてどうでもよくて、今の自分…それは

彼氏がいない私
結婚していない私
子供がいない私
大してお金がない私
友達がいない私
やりたい仕事ができてない私
ライフワークがない私
すごい結果が出せてない私
キラキラしてない私
誰かみたいにイケてない私

を全部まるっとそのまま引き受けて、その自分とこれからの人生を生きていく覚悟をするってことなのだと思ったのです。

それは、今の自分として受け取ってきたもの、与えてきたもの、既に持っているものに目を向けて、その価値を再評価することでもあるのかもしれません。

って、結局「自己肯定」ってことになっちゃうんだけどさ。

願望って、結局は今の自分を否定することから生まれやすいものなんですよね。

なので、願望に執着すればするほど、「それを手に入れていない自分」に焦点が当たることになる。

「引き寄せの法則」の本質は、「意識を向けたものが拡大する」ということでもあると思うので、願望に執着すればするほど逆効果だし、流れを妨げることになっちゃうんですよね。

だから、「願望を手放せ」とか「執着を捨てろ」というメソッドになるんだと思うんですね。

流れを妨げさえしなければ、うまくいくようにできているんだから、というのが本質的な仕組みのようです。

それを信頼することが、サレンダーってことにもなるんでしょう。

まとめると、今の自分で生きていく覚悟とか、コミットメントというのが、「諦め」であり、「手放し」であるのではないか、というのが私の結論だったのでした。

それはつまり、流れに身を任せる勇気であり、自分の人生の流れそのものを信頼する強さでもあるのかもしれません。

そこに到達するまでは、いくらでももがいたらいいし、こだわったらいいし、執着したらいいんだと思うんです。

そういう風に、必死に何かを追い求めることでしか経験できない感情や体験も、必ずあるはずなので。

ただもし、どこかそんな自分に疲れ切って、無性に泣きたくなるようなことが増えたならば、それはそろそろ生き方を変える転換点が近づいてきたという天からの知らせなのかもしれません。

そんな時が来たならば、これまでの頑張りをきっちりと労い、頑張ったからこそ得られたものを受け入れ、認め、喜んで、次のステージへと、堂々と進んでいけたらいいよね、と思うのです。

その場所に立ってみて初めて、見えてくる景色もあると思うから。

それは、どっちが良いという話でもないし、どっちが上という話でもない。

その人にとって、必要なプロセス、タイミングは人それぞれ違うものだから^^

どんな時でも、私たちにできることは、今の自分を許し続けるということだけなのかもしれませんね。

ではまた!

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