愛あるみなさま、こんにちは。
サトヒです。
先日、「罪悪感で生きるのはもうやめる」とのたまったわけですが
実は、そう思った時に目に入ったオシショー様のセミナーがありまして。
その名も「罪悪感をあの手この手で癒す、リアルのワークショップ」
ということで、そんなドンピシャなタイトルのワークショップに先日参加してきました!という話。
前置き的余談ですが…今回、超久々の根本オシショー様の講座だったのですが
「せっかくなので、みなさんの状況に合わせてワークを組み立てたい」
的なお話しで、なんと自己紹介から入るではないですか…!!
自己紹介が超絶苦手な上、最近のちょっとした悩み?として、根本先生の一般向け講座に出た時に自分がお弟子であることを出していいのかがよくわからんくて。
オシショー様や他の受講生の方にとっては、超どうでもいい悩みなはず。好きにせえと言われる話。
でも今回、自己紹介の順番が最後から2番目だったのだけど、なんて名乗るかを考えてたら他の人の話全然聞けなかったもんね(ドイヒー)
結局「本名+サトヒ」というわけわからん感じで名乗り、しかも「オシショー様…あ、先生」みたいに言い直してしまい
お弟子であることを変に匂わせるみたいな形になってしまった…
だったら、最初からお弟子ですーって素直に言えば良かったと、後から大変恥ずかしくなった次第です。
私がお弟子だろうがお弟子じゃなかろうが、マジでどうでもいい話なのに…自分の自意識過剰ぶりが恥ずかしかった…という小ネタ。
ちなみに私、ワークがあまり得意ではないのですが、それを自己紹介でアピールしたからか、思ったより座学パートが多くてありがたかったです♡(完全に逃げの姿勢)
罪悪感ワークショップでの学び・3選
ということで、ここから今回のワークショップで「罪悪感」について私なりに学んだことを簡単にまとめてみようと思います!
今回メモを取らなかったので全力私の記憶頼みでして、実際の講座の内容とは違っているかもしれません。その点、ご了承くださいませ。
① 罪悪感は感覚的でとても捉えにくいものである
罪悪感というのは、一言で言えば「申し訳ない」感覚とも言えるわけですが
「何かをしたから」とか「何かができなかったから」という明確な理由があるものばかりでもなく
とても漠然としていて感覚的なものだからこそ、「罪悪感」自体を思考的に理解するのは難しかったりするのですね。
なので座学のパートでは、罪悪感があるときに出やすい考えとか行動とかにフォーカスして、罪悪感という感覚を客観的にわかりやすいように丁寧に扱ってくれたという感じがしました。
つまり、罪悪感が出た時に出やすい思考・行動パターンから、逆説的にその背景には「罪悪感」があるよと気づくためのお話しですね。
中でも、依存症の話がメインだったのが印象深い…というかギャンブルの話?競馬・競輪・競艇の話?(笑)
最近では、某一平ちゃんの話が取りざたされていたから、時事ネタ絡みで例としてわかりやすかったのかもしれない。
とにかく、何かに依存傾向があるということは、そこに罪悪感があるということは間違いないらしく。
しかもその「依存傾向」というのは、依存症と言われるレベルではなくとも、何かに依存=つまり執着がある時点で、そこに何らかの罪悪感があることを示唆しているそうな。
そしてその依存心から行う行動というのは、結局のところ「義務感」からやらざるを得ないものになっていて、やること自体が補償行為になってしまう場合もあるらしく。
やってることにも依存しているんだけど、それ自体が罪悪感の補償行為にもなっているから、ぐちゃぐちゃに絡み合って、そこから抜け出せないみたいな沼状態。
つまるところ、そこには「自分を罰する意識=自己攻撃」というのが見え隠れしている。
「罪深い私が、このくらいの罰を受けるのは当然です、罰してください」という思いでもあり、
「これだけしんどい思いをしているのだから、どうか許してください」という思いでもあり。
とにもかくにも、罪悪感というのはとても功名で、自覚しにくく、捉えにくい感覚のよう。
また罪悪感は、独房に自分をぶち込む感覚とも言われているそうな。
罪悪感を持つことが「自分は毒である」という感覚にもつながるからか、周りとの分離を深める。
となると、親密感の怖れとかも罪悪感が絡んでそうですな。
罪悪感は、罪悪感を感じないことにも罪悪感を抱かせたりするので(複雑怪奇)、罪悪感を感じることで周りとつながろうとすることすらあるそうで。
(みんな罪悪感を感じているのに、自分が感じていないなんて許されないみたいな罪悪感…拗れまくり!!)
だけど、罪悪感でつながるというのは、独房のお隣さん同士みたいな感覚。
結局、周りでどんなに人の気配がしたとて、実際は孤独な部屋に独りぼっち。そこにはつながりの安心感は無い。
どこまで行っても孤独、自力と自立の極み。
個人的には、すべての自分責め・自己攻撃の背景には「罪悪感」が潜んでいると私は思っている。
モヤっとしたり、ザワっとしたり、イラっとしたり、何かしらネガティブな感覚が自分の中に湧き上がるときは、もはや絶対と言っていいほど、そこに「自分を責める思考=罪悪感」があると感じる今日この頃なのであーる。URであーる。(久々)
② 感謝は罪悪感を癒す
ワークの一つに、「人生で感謝し忘れている人、し足りない人を思い浮かべて感謝する」というのがあったのだけど
感謝できていない状態というのは、どこか後ろめたさを感じさせるし、それが罪悪感にもつながるなぁと感じました。
ワーク後の質問で、「感謝しづらい人が思い浮かんだのだが、何か意味があるのか」といった話があったと記憶しているのだけど
それに対するおシショー様回答は「許したかったんじゃないですか?」とのことで。
感謝するというのは、「許す」ということとイコールでもあるのだな。
感謝が罪悪感を癒すことにつながるのは、もちろん相手を許すということでもあるし、感謝できてない自分を許すという一面もありそうと思ったのでした。
そして、罪悪感が他者との分離感を強めるのであれば、感謝というのは感謝する相手とのつながりを感じられる方法でもある。
つまり、罪悪感を癒すために必要なのは「つながり」ということでもある。
相手と心がつながってると感じられる時って、なんかぽかぽかするような気がしたり(by 綾波レイ)、ホッと緩むような感覚がしたりするじゃないですか。
それが、つまり「許されている」感覚であり、つながりによって罪悪感が癒されているということなんだと思われます。
③ 罪悪感は自分で扱わないのが鉄則
今回のセミナーでの最大の学びと言っても過言ではない。
「罪悪感はややこしいので自分では扱わない」
上記の通り、罪悪感は複雑怪奇なものなので、自分でこねくり回してどうにかしようとすると、逆に泥沼にハマりがちな感情だそう。
罪悪感というのは、罪悪感を感じない事にも罪悪感が出るので、罪悪感を手放そうとした時点で、また別の罪悪感を呼び起こしたりするのが、とにかくややこしい。
(例:誰かを傷つけたと思って罪悪感を感じていた場合、その罪悪感を手放そうとすると、誰かを傷つけたのに罪悪感を感じない自分がとてもひどい人間のように見えて、また別の罪悪感を感じるみたいな、罪悪感のわんこそば状態)
自分で取り扱わないって言われても、じゃあどうすればいいの?ってまたもや思考は言い始めると思うのだけど
「罪悪感」に対しては、自分以外の大きな存在に任せる、つまりサレンダー的な意識がめちゃくちゃ重要だそうで。
罪悪感が分離を生み出すということは、逆に言えば、罪悪感を手放すというのは「自立・自力を手放す」ということでもある。
何度も言うように、罪悪感というのはめちゃくちゃややこしい感情なので
罪悪感の元になっている考えを自力で変えようとしても、それがまた罪悪感を生み出したりして、どんどんややこしくなってしまう。
だから、自分では扱わない。
神様とか女神様とかの目に見えない大きな存在にまかせる、ゆだねる。
私たちができるのは、自分の中のエゴの考え(罪悪感を生み出す考え)に気づいた時に、ただそれを取り消してもらうように神様(他、大いなる存在的なもの)にお願いするのみ。
神社とか神棚に向かって祈るのも良いし、今回のセミナーでやったような女神さまに手渡すようなイメージワークをするのも良い。
とにかく、自力で変えようとしないのが一番の秘訣なんだそう。
現実的な問題でリアルに罪悪感で苦しんでいる人にとっては、「本当にこれが解決策になるの!?」って感じがするかもしれないけれど、根本的にはこれが一番の解決方法なんだと思う。
奇跡のコースでも、「エゴと自分は一体化しすぎているので、自力でエゴから目を覚ますのは無理」みたいなことが書かれている。
ここで書かれる「奇跡」というのは「訂正」という意味で、そもそも罪悪感を生み出す根本的な考え自体が間違っているから、それを正しい考えに訂正することを「奇跡」と呼んでいるのだけど
「それは自力ではできない」ってハッキリ書いてあるのよね。
この世界において、いかに自分以外の大きな力に頼り、任せるという在り方が大事かというのを、強く感じる今日この頃なのでした。
自分一人で生きてない、生きられないってことに気づき、その背後にある見えない大きな流れのようなものを意識することって大事なんだなと思う。
大きな流れに委ねるというのは、自力でやろうとする=抵抗する意識(コントロール)を手放すことでもある。
だとすれば、罪悪感を自力で手放せると思う気持ち自体を手放すのが大事なんでしょうな(ややこしい苦笑)
とにかく、罪悪感というものはそのくらい根深く、ややこしい感情だと理解しておくのは大事な一歩かもしれません。
罪悪感についての超・個人的見解
ここまで「罪悪感」という単語を書きまくってたら、「罪悪感」がゲシュタルト崩壊しそうで、むしろイイ感じ(?)な私の個人的解釈を以下に連ねますが
罪悪感というのは「罪の意識」そのものであり、それを感じている時点で「自分は罪を犯した」という証明になってしまうので
罪を犯した自分は罰されるべきという思考を生み出すし、そこから罰を受けることへの怖れにもつながってしまう。
ここで言う「罰」とは、幸せになってはいけないことだし、喜びを感じてはいけないことだし、望むものを手に入れてはいけないことだし
何かしら償うべきだし、自分を犠牲にして尽くすことだし、絶対に許されてはいけないという感覚を抱かせるものでもある。
その感覚が表面化した場合の事象は本当に人それぞれで、パートナーシップであったり、仕事であったり、ライフワークであったりと多岐に渡るジャンルで、「何だかうまくいかない」ことになりがち。
何かしら、自分がこうなったらいいなということを素直に望みきれなかったり
自分にはこの程度でいい…と無意識にブレーキをかけてしまったり
欲しいはずのものを、遠慮して受け取れなかったり
攻撃や嫉妬を怖れて、自分の本領を出し切らずに隠れようとしてしまったり
自分を後回しにして、周りのためにばかり動いていたり。
ほんと、どんな体験に変換するか(どんな補償行為を選ぶか)は、その時々かつ人それぞれって感じがする。
お弟子講座の時にも学んだけど、「すべての問題の影には罪悪感がある」と言われているくらい、罪悪感って私たちの思考に深く根付きすぎているのよね。
そして、罪悪感を感じることはめちゃくちゃ怖いことなので、どうにかその恐怖から逃れたくて、無意識に補償行為に走ってしまい
「やりたいわけじゃないけど、なぜかやめられない」みたいなわけわからないことになりがちなんだな。
今回、ワークショップで「許された」感覚を味わったとて、日常生活に戻ったとたん、いつもの罪悪感パターンに飲み込まれるってことはあるよなぁと思い
「この感覚を日常生活でも思い出すようにするには、どうしたらいいのでしょう」
とオシショーさまに質問したところ
「課金してください」
と言われました(笑)
まぁ(半分は)冗談として、例えば自分なりにイメージワークで神様に委ねてみるとか、アファメーションを唱えるとかはできるとしても
前述の「自分で扱わない」というのが非常に大事だということがわかったので、カウンセリングやセラピーの機会を利用して、「許されている」「安心感を感じて緩んでいる」状態を身体に叩きこむのが大事なんじゃないかと解釈しました。
つまり、罪悪感自体が幻の感情なんだから、アファメーションにもあるように
「私は無罪で、私の罪は既に許されている」
ということを身体で感じるということが、何より大事なことなのでしょう。
個人的には、罪悪感は思考だけじゃどうにもならないというのが、本当に身に染みたセミナーでした…チーン。
ということで、私の方でもそういったイメージワークを取り入れたセッションを提供するのも良いなぁと思ったというステマ的オチ…(爆)
ご興味ある方は、頭の片隅にでも置いておいてくださいませ♡
ではまた。
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