生きている意味がわからない:生きるための大義名分はなくてもいい。完璧じゃない自分でも愛されていいし、生きていていい。【ココロノマルシェ】

ココロノマルシェ

【どうして生きているのか分かりません。】

「なぜ自分が生きているのか?」を真剣に考え続けているのならば、それは「生きたい」と思う気持ちがあるからこそなのだと思います。

どんなに辛くてもここまで生きてこられたことは、死ぬよりもずっと勇気があって、勇敢なことなのではないではないでしょうか?

これまで、死にたいと思いながらも生き続けてこられたご自分の強さに、ほんの少しでもいいから、価値を見出してあげて欲しいのです。

そして、今までの視点を少し離れて、自分の生きる意味や価値を、「ある」という角度から見てあげて欲しいのです。

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ココロノマルシェにご相談頂いた内容に回答しています!

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心理カウンセラー根本裕幸のお弟子さんがあなたのお悩みにオンラインで答えます。

初めまして、黄色と申します。

私はおそらく自己愛性人格障害ではないかと疑っています。もしかしたらアスペルガーなども併発しているかもしれません(どちらも検査などは受けていません。自己診断です)

なぜそう思うか、ということを話すと長くなってしまうので割愛しますが、日々過大な妄想を繰り広げ(本当の自分はとても美人で芸能人から一目惚れされる素質がある/現実はドブス)(地頭がいいのでちゃんとやっていれば良い大学にも行けていたはず/現実は名前を書けば受かるような地方底辺短大卒。もちろん勉強なんてこれっぽっちもしなかった)(性格はとても良く皆から慕われている。いつも取り合いが起きる/現実は年末年始の挨拶をする人もいないくらいに孤独。孤独死まったなし)、そうじゃない現実に絶望したり、そりゃそうだろと思ったり、だからお前は最低なんだと思ったりしています。

人をコントロールしたいと思ったことはありませんが、上記のような強すぎる自己否定が基本的には全面に出ており、ネガティブでいることによって人をコントロールしようとしているんだろうなぁとも最近自覚しました。

もう30歳を過ぎていますが、両親とは反りが合わず、友達もおらず、恋人なんてましてや人に好かれたこともありません。

仕事も派遣なので、いつ首を切られてもおかしくなく、自分でもやりがいをもっていないので、苦痛の中、ただただPCの前に座っている毎日です。

こんな頭のてっぺんから爪先まで最低で良いところのない人間は、どうして生きているんでしょうか。

「いや、努力してこなった貴方のせいでしょ」と言われたら、ぐうの音も出ません。それが事実で現在が作られているからです。

では今からできることを精一杯やって幸せだと思えるようにするしかないと言われたら、果たしてそれをして幸せになるのか?と、先に未来の保証が欲しいと喚いてしまうのです。

良い歳して恥ずかしい限りです。

どうしてこんな人間が生きているんだと思いますか? 生きていて良い理由がありません。

どうして死ねないのでしょう。自殺する勇気が出ません。どうしたら勇気を出せますか。

そんなこと思わないで、と優しい言葉を投げ掛けられてもちっとも響きません。なぜですか?

なぜ私はこんな人間なんでしょうか。なぜ私は言い訳ばかり並べてしまうのでしょうか。

努力したくないクズだからです。それで生きてこれてしまったからです。

ではそれで良いじゃないかと聞かれたら、寿命が長すぎるんです。
明日トラックに突っ込まれて死ぬくらいで調度いいんです。

(黄色さん)

「自分らしさ」をとことん追求する、ライフワーク研究家サトヒです!

頂いたご相談を読んで、言葉を変えてご自分を責め続ける様子に、なんだか泣けてきてしまいました。

しんどいですね、辛いですね。

私も、人生で生き辛くて仕方なかった時期が長かったのですが、その時期はとにかく「生きる意味」や「生きる理由」を探し続けていました。

なぜ人は生きるのか、いや、なぜ生きなければいけないのか?という事ばかり考えていたように思います。

なぜなら、そういった意味や理由がなければ、自分は生きていてはいけないような気がしていたからです。

「生きる理由」という大義名分がなければ、自分はここに存在してはいけないという強い思い込みがあったんですね。

頭では「死にたい、自分なんていない方がいい」と思いながらも、「生きるための理由」を探し続けるっておかしな話なのですが、命というものは、どんな状況でも個体を生き延びさせるために必死になるものみたいですね。

ちなみに、私が「生きる意味」を探し続けた結果、現時点で見つけた答えは

「生きる事自体が意味であり目的である」

ということでした。

生まれたから、死ぬまで生きる。

それが、宿命であり、運命のようなものなのだと。

そして、どんな死に方をしても、それが例え事故であっても自死であっても病気であっても老衰であっても、それはその人自身が生まれる前に決めてきた寿命なのだという話を聞いたことがあります。

自分では自覚がないけれど、死ぬ時すら自分で決めてきたのならば、今生きているということは生きる必要がある、ということなのだと思うのです。

何か学びたいことがあって、必要な体験があって、感じたい気持ちがあって、関わりたい人がいて、だから生きて、今目の前にある現実を体験している…それが「生きている」ということの意味なのではないでしょうか?

だから今黄色さんが、「なぜ自分が生きているのか?」を真剣に考え続けているのならば、それは「生きたい」と思う気持ちがあるからこそなのだと思います。

どんなにしんどい出来事ばかりでも、絶望する現実ばかりでも、それでも自分が「生きていていい」「生きる意味がある」ということを感じたくて、「生きている理由」を探しているのではないですか?

どんなに辛くとも生き抜こうとし続けることは、死ぬことよりもずっと勇気があって、勇敢なことなのではないですか?

私には、そう思えるのです。

自己防衛としてのファンタジー(空想)

黄色さんは、ご自身で「自己愛性人格障害」や「アスペルガー」を疑っていらっしゃるようですが、私も医者ではないので診断名をつけることはできませんし、本当にそうなのかもわかりません。

ただ、黄色さんの苦しみというのは、「こうあるべき/こうあって欲しい」という自分の期待に反して、理想的ではない目の前の現実とのギャップから、ご自分を責め続けていることが原因なのではないかな、と思いました。

そして、黄色さんのおっしゃる「過大な妄想」というのは、痛烈な自己否定からご自分を守るための、ある種のファンタジー(空想)なのではないかと思います。

ファンタジーについてはこちらの記事に詳しい説明があるのですが

言い換えると、現実世界で実現できなかったり手に入らなかった時に感じる心の痛みに対する痛み止めや、せめてもの慰みとしてファンタジーの世界を作り出し、その世界の住人となるのです。

とある通り、人として自然な自己防衛機制の一つなのかもしれません。

言うなれば、そうやって自分を守らなければ、苦しくて苦しくて到底生きていけない、という位に追い詰められているということでもあると思います。

それほどまでに、黄色さんはありのままの自分をけなし、責め、深く否定しているのだと思います。意識的にも、無意識的にも。

そんな自分を非難する声が耐え難く、つかの間の夢として、「こうだったらいいのに」という理想の世界に逃げ込むことで、傷ついた心を癒したいと願っているのかもしれません。

ただ、黄色さんが「現実」だと思っていることは、本当にそんなにひどいものなのでしょうか?

一つ一つ、コメントを確認しながら訂正させてくださいね。

>現実はドブス

ブスと美人の違いってなんなんでしょう?見た目の美醜は、一体誰の基準で決められることなのでしょう?

そこには、文化的、時代的価値観の影響が大きく関わるものだし、そもそも人には様々な好みがあります。

”ドブス”という表現は、黄色さんにとって、黄色さんの見た目が好みではない、というだけなのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

>現実は名前を書けば受かるような地方底辺短大卒。もちろん勉強なんてこれっぽっちもしなかった

”地方底辺短大”とおっしゃいますが、その学校だって、金銭的・学力的な都合で入れない人たちはたくさんいると思うんですね。

そこに、勉強なんてこれっぽちもせずに入れてしまう黄色さんは、私にはとても優秀に見えるんです。

>現実は年末年始の挨拶をする人もいないくらいに孤独。孤独死まったなし

年末年始の挨拶をする人がいない、というのは、黄色さんが挨拶をしたいと思う人がいない、という方が正しいように思います。

人は、人と関わらなければ生きてはいけません。つまり、黄色さんが今生きているということは、何かしら人との関わりがあるという証拠なのです。

それに、孤独が一概に悪いわけでもありませんよね。一人が好きな人もたくさんいますから^^

黄色さんの状況としては、「孤独感から寂しいと感じることが辛い」ということなのかな、と思いました。

というように、私から見ると、黄色さんがご自分を責めている理由が

>そうじゃない現実に絶望したり、そりゃそうだろと思ったり、だからお前は最低なんだと思ったりしています。

>こんな頭のてっぺんから爪先まで最低で良いところのない人間は、どうして生きているんでしょうか。

と思うほど、ひどいものには思えないのです。

素直に受け入れられないかもしれませんが、こんな客観的な視点もあるのだということを、頭の片隅に置いておいて頂けると嬉しいです^^

とは言え、きっと黄色さんにはそこまで深く自分の存在価値を否定しなければいけない理由が何かあるからこそ、様々な理由を見つけては、自分への攻撃の手をやめずにいるのだと思います。

>もう30歳を過ぎていますが、両親とは反りが合わず、友達もおらず、恋人なんてましてや人に好かれたこともありません。

と書いていらっしゃることから、もしかしたら黄色さんが育ってきた環境の中で、自分が生きている価値を素直に感じられないような出来事がたくさんあって、心が傷つきすぎてしまったのかもしれない、と推察しました。

中でも、ご両親との関係性が重要と私は考えているのですが、育ってきた家庭環境の中で、「自分は愛されている」「自分は大切にされる存在だ」「自分は必要とされている」といった自己重要感や自己肯定的な感覚を得られる機会が少なく

その結果、他人に対しての基本的信頼感や安心感を持つことができずにきてしまったのかもしれません。

そうすると当たり前ですが、他人に対して心を開くことが怖くなってしまうものなので、友人や恋人など、比較的距離感の近い人間関係を築きにくくなってしまうのですね。

(なぜなら、基本的信頼感・安心感を感じる訓練を家庭の中でできなかった=人に対して不信感や不安感を強く感じてしまうため、距離を近づけることに恐怖を感じてしまう、からです)

先ほど、「孤独を感じて寂しい」と書きましたが、人は物理的に独りでいることが寂しいわけではないと思うのです。

歌の歌詞にもありますが、「1人でいる時に感じる孤独より、2人でいても感じる孤独のほうが辛い」みたいなことはよくあって(これは某浜崎あゆみさんの歌)

本来「寂しさ」というのは、人と人との間で心の交流がうまく行われない時に感じる感情のように思うのです。

ですので、黄色さんの言う「孤独」というのは、人とうまく距離を近づけられないことから感じている寂しさのことなのではないかな、と思ったんですね。

完璧じゃない私でも、それでいい

>そんなこと思わないで、と優しい言葉を投げ掛けられてもちっとも響きません。なぜですか?

とのことですが、私は生きることに苦しんでいる人に対して、「そんなこと思わないで」なんて台詞は軽々しく言うものではないと思っています。

黄色さんは、その言葉を「優しい言葉」と表現されていますが、そう言われるたびに、「あなたに私の何がわかるの?」と反発したい気持ちを抑えてきたのではないですか?

「そう思わざるを得ないほどに苦しんで生きてきた私の気持ちなんて、どうせ人にはわかってもらえない。」と、ますます孤独感を強めていったのではないですか?

だとしたら、ちっとも心に響かなくたって当然だと思うんですよね。

だけど心優しい黄色さんは、そんな自分を「人の善意を素直に受け取れない自分」として、自分を否定・攻撃する材料に加えてしまったのかもしれません。

これまでずっと、死にたくなるほどまで自分の存在意義を問い続け、自分の価値を否定し続け、自分の存在を恥じてきたんですよね。

ボディーブローのように自分の自尊心を削り続ける苦しみの壮絶さは、想像するに余りあります。

黄色さんにとっての「死にたい」は、「楽になりたい」ということとイコールなのではないでしょうか。

自分の中で鳴りやまない否定の声を止めて、ただ何も考えずに、静かに漂っていたい。

それはつまり、「許されたい」という感覚に似たものでもあるように感じます。

自分の理想通りではない自分も、これ以上頑張れない自分でも、何もできないように思える自分も、全部、全部、そのままで許されたい。

それは、ありのままの自分で生きることを許されることでもあると思います。

では、そのありのままの自分を一番許せないのは、誰なのでしょう?

そう、自分自身なんですよね。

自分を許せなくなってしまったきっかけというのは、きっと過去の経験の中に色々あって、それは既に記憶の奥底に閉じ込められてしまって、すっかり忘れてしまっているかもしれません。

しかし、経験そのものは思い出せないけれど、「自分は愛されないんだ」「自分には存在価値がないんだ」と、経験を通じて感じた感覚だけが強く自分の中に残ってしまっているのでしょう。

そういった強い「無価値感」が、自分を否定する大きな原因になっているのだと思いますし、そんな価値のない(と感じる)自分が生きていることそのものが、「罪悪感」を生み出してしまっている可能性もあるのです。

「無価値感」や「罪悪感」は、人から幸せを遠ざけるものです。

「こんな自分が幸せになってはいけない」

と、自分が望むものを受け取る許可や幸せになる許可を出せなくなるからです。

>では今からできることを精一杯やって幸せだと思えるようにするしかないと言われたら、果たしてそれをして幸せになるのか?と、先に未来の保証が欲しいと喚いてしまうのです。

そうですね、未来の保証が何もないことに努力するのはとても辛いことです。

だけど、一つだけ黄色さんにやって欲しいことがあります。

黄色さん。今までずっと責めに責めてきた自分の事を、もう許してあげませんか?

本当は、ありのままで許されたかった自分。

自分の理想通りではない自分も、これ以上頑張れない自分でも、何もできないように思える自分も。

「完璧じゃない私でも、それでいい」

と、ダメだと否定し続けてきた自分が存在することを、許してあげてもらえませんか?

完璧じゃなくても、愛されていい

完璧じゃなくても、許されていい

私は、ありのままで許されている

ただ、そんな言葉をつぶやくだけでも構いません。

全然思いがこもってなくても構いません。

台詞のようでもいいから、その言葉を自分にかけてあげて欲しいのです。

無価値感や罪悪感は根深いものなので、その言葉だけですっきり全てが解消するとは思いません。

今回のご相談内容からだけでは、黄色さんがそういった感覚を感じてきてしまった理由を、全て見つけ出すことはできないからです。

それでも、自分を許そうとする決意だけは、今この瞬間にできることだと思うのです。

それをしたからといって、黄色さんの幸せな未来を保証することはできませんが、今の「生きていることが辛い」気持ちの重さを、ほんの少しだけでも軽くすることができるように思うのです。

とはいえ、本当に辛くて仕方ない時は、これ以上何かを頑張る必要はありませんから。

できなければできないままで大丈夫なので、その時はとにかく自分がリラックスできることを最優先に考えてあげてくださいね^^

これまで、死にたいと思いながらも生き続けてこられたご自分の強さに、ほんの少しでもいいから、価値を見出してあげて欲しいのです。

今までの視点を少し離れて、自分の生きる意味や価値を、「ある」という角度から見てあげて欲しいのです。

黄色さんの心が少しでも軽くなり、これまで生きてきた、そして今生きている自分という存在の意味や価値を、ご自分の中で見つけ出して頂けることを、切に願っています。

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