助けたい気持ちと無力感、その裏にある「ごめんなさい」の気持ち

人間関係

愛あるみなさま、こんにちは!

サトヒです。

突然ですが、私ってこう見えて(?)、めちゃくちゃ気いつかいの気にしいで、超絶空気読むタイプなんです。

え?馴れ馴れしいし、ずうずうしいし、気が強そうだし、そんな風に思わなかったって?いやー、ほんと人って見かけによらないものなんですね~。hahaha(外国人風乾いた笑い)

もはや、この空気の読み方は才能レベルかもしれないと思っている今日この頃なんですが…

なぜそんなに気を遣うかというと、そりゃもちろん「嫌われたくないから」ですね。

人の気分を害したくないので、なるべく他人の意向に合わせたいと思うし、自分が多少なりとも我慢して事がうまく運ぶならば、それが最も平和的で幸せな解決方法だと本気で思っていました。

自分発信で余計な揉め事を起こすくらいなら、その場で一番意志の強そうな人の空気を読んで、その人の意向がうまく実現するように流れをサポートする方が楽だと思ってたんです。

なので、めちゃくちゃ八方美人でもあります。

意志の強い人の意向をくみ取りつつ、全体の流れを調整しようとするのですから、誰にでも良い顔をしているようにも見えるかもしれません。(実際に、八方美人!と罵られた経験もあります。笑)

がしかし、そうも言っていられない事態が、最近私の身の回りで起こりました。

そう、私が自分の本音に向き合わざるを得ないような状況が。

いつもは貝になって口も心も閉ざし、全てをシャットアウトして終わりにしたい私が、自分の口で、言葉で、自らのネガティブな本音を相手に伝えざるを得ない状況が。

そもそも、なぜ私が自分の本音を伝えるのが苦手なのかというと、生粋の気いつかい&気にしいの才能を爆発させて、相手の立場を思いやりすぎるからなのです。

自分の繊細さ(というか気の弱さ)を、相手にも映し出して見て、「こんなことを言ってしまったら、きっと相手は傷つくだろう」と、自分の気持ちに勝手にブレーキをかけてしまう。

もちろん、それで相手を傷つけるようなことになって、相手から嫌われることも怖いのですが、それ以上に、傷つけてしまった罪悪感を自分自身で抱えることが怖いのです。

「私が傷つけてしまった」

その烙印こそが、何よりも自分を苦しめ、地獄に落とすことに気づいているから。

そして、その罪悪感を引き受ける覚悟がないから、なるべく人を傷つけないように、自分の本音を伝えることから逃げてきたのです。

「わからない」と「わかろうとしない」は違う

思い返してみれば、それは母に対して思っていることと全く同じでした。

過去の私は母に対して、自分が傷ついたこと、嫌だったこと、何をどうして欲しかったのか、などをうまく伝えることができませんでした。

身内の甘えもあり、とても感情的に、怒りによってしか伝えることできなかった。

そして、その言葉はいつも母に届かなかった。

また、そんな風に怒りをぶつけた自分に自己嫌悪し、罪悪感で自分を責めてしまうのです。

だから、結局本当に伝えたかった悲しい思いは、母にわかってもらうことができずにきたのです。

でも、過去受けた心理セラピーで母の感情を感じる中で、「この人は私の感情に本気で気づいていないんだ」ということを理解したんです。

それもまた、私は自分のフィルターで、「このくらい気づいても当たり前だろう」と母に対して期待していて、「私の気持ちがわからない」という相手の状況が理解できなかったんです。

それを私は、「わからないのではなく、わかろうとしないだけなんだ」と判断して悲しんでいたのです。

その気持ちが、「私の気持ちは理解してもらえない」という思い込みも作っていました。

でも、本当はそうじゃなかったんです。母は私をわかろうとしないのではなく、本気でわからなかっただけなのです。

そして、私が自分の本当の気持ちを伝えたところで、私が心配するほど母は傷つかなかったのです。

「あぁ、そんな風に思ってたんだね」って、さらっと、その程度で済む話だったんだと。

それを、私は母で学んだはずなのに、また同じことを外側でやっていたんですね。(苦笑)

なので今回、自分のネガティブな本音を言葉にして伝えるという経験を実際にしたことで、また一つ自分の思い込みの枠が外れたような気がしたのです。

「私は思ったことを伝えても大丈夫だし、その中でわかってもらえることとわかってもらえないことはどちらもあるけど、それは結果的にどちらでも良くて、なによりも自分で自分の気持ちを主張するということで、私は自分の気持ちを大事にできたんだ」

と。

助けるために生まれてきたのかもしれない

先日のブログの冒頭に書きましたが、先週末に弟子講座の2期を傍聴させて頂いたのですが、その時のテーマが「イメージワーク」で。

一度だけワーク練習に参加したのですが、それが「向き合うワーク」というものだったので、自分が思いを伝える予定だった相手を思い浮かべてワークをしてみたんです。

で、その相手を思い浮かべた瞬間、出てきた気持ちが

「ごめんなさい」

だったんです。

もう、ただただ「ごめんなさい」という気持ちが溢れて、泣きたい気持ちを抑えるのに必死でどうしようもなかった。

あぁ、私はこの「ごめんなさい」を感じたくなくて、怒りを使って自分を守ろうとしていたんだな、と感じました。

じゃあ、私のこの「ごめんなさい」に含まれる意味が何かといえば

「助けられなくてごめんなさい」

なのです。

つまり、その根本にあるのは「無力感」であり「罪悪感」なのです。

お弟子講座では、毎回お師匠様によるデモセッションがあるのですが

今回のテーマがまさに「無力感と罪悪感」で、ここでもまた私は集合無意識の恐ろしさを思い知ったわけなんですが(笑)

そのセッションの中で、お師匠様が

「どうして、その親を選んで生まれてきたと思う?」

という質問をした上で、胎内記憶で有名な産婦人科医の池川明さんの言葉を引用していました。

(私は元々頭がスピリチュアル構造ですし、池川明さんの著書も読んだことがあるので、胎内記憶も前世記憶もある人にはあるものだし、子供が親を選んで生まれてくるものだと思っています。)

お母さんを選ぶ理由のナンバーワンは、「かわいい」「やさしそう」です。

理由の2番目は、「助けてあげたい」とか「寂しそうだったから笑わせたい」というものです。

「あなたが親を選んだのは、きっと2番目の理由だね」

そのデモセッションを見て、たくさんの人が泣いていたので、きっとその場にいた人の大半が「助けたい」という気持ちで、親を選んできた人だったのかもしれません。

私自身もまさに、「助ける」ことに使命感を燃やして生まれたタイプでした。

それについては、過去のセッションで向き合ったことがあります。

幸せにしたかったんですよね。

助けたかったんですよね。

力になって、楽にして、ただただ笑っていて欲しかったんです。

でも、そんな使命感は子供の自分では果たしきれずに、とてつもない挫折感と罪悪感を抱えて生きることになります。

純粋な「助けたい」という思いは、自分の役割であり、存在意義でもあったので、その失敗は”存在の死”にも等しいものでした。

そのため、その思いはいつしか「助けなければ」「役に立たなければ」という使命感や義務感と変化し、最終的には「私には助けられない」「助けられなくて申し訳ない」という無力感や罪悪感に姿を変えてしまっていたのです。

「無力な私は、存在する意味がない」

そんな思いを感じなくて済むように、がんばって人を助けようとするし、役に立とうとする。

その反面、自分の中に渦巻いているのは

「本当に役に立っているのだろうか?」

「役に立たない自分は、ここにいてはいけないんじゃないか?」

「逆に迷惑をかけているんじゃないか?」

という自分の存在に対する猜疑心や不信感なのです。

だから、自分の無力さを感じるたびに封印した「ごめんなさい」が出てきそうになるけど、それを認める=存在の死だから、怒りで蓋をしたくなるのです。

自分が無力であることを認めないために。

私が、ここにいてもいい理由を見つけるために。

無力ということはありえない

とはいえ、本当は、「無力」ということ自体が誤解なんですよね。

それが、心理的に腑に落ちていないだけなのです。

子は親を選んで生まれてきたかもしれないけど、そこには親と子の魂同士の合意があったはずだと思うのです。

そしてそれは、親子関係だけではなく、全ての人間関係に共通すること。

お互いが、お互いの成長に必要な経験をするために、合意の元でお互いを選んで、同じ時を共有している。

だとすれば、今私がここにいること自体が、誰かの役に立っているし、誰かの成長に貢献しているのかもしれない。

それが、私にとっての誰かとしても同じこと。

互いに共有した経験が、互いの成長の役に立っている。

だとしたら、お互いの存在自体が、「意味」そのものであり、「存在意義」であるということ。

そこにもう、新たな意味をつけようとしなくてもいいのです。

それを、誰かに証明してもらう必要もないのです。

私が自分の本音を口にすることで、傷つく人はいるかもしれない。

それでも、その私の言動が、誰かの気づきや成長の元になることもある。

実際に、私が自分の本音を伝えようとする様子を見て、「勇気をもらった」とか「生き様を見た」とか「伝えてくれてありがとう」という言葉をかけてくれる人もいたのです。

私が受け取らないだけで、ずっと私は誰かの何かにとって、力を与えられる存在であったのかもしれません。

それはきっと、父や母に対してもそうだったのでしょう。

だとしたら、私はもう自分の無力感と罪悪感を手放して、何もできない自分を許してもいいんじゃないだろうか?

自分の考えに従って、自分の思う通りに、自分の気持ちを表現して、やりたいようにやってもいいんじゃないか?

誰かを傷つけることを恐れるよりも、私自身が大切にしたいことを信じて、堂々とその思いを表現してもいいんじゃないか?

改めて、それを実感することができた良い経験になりました。

私にとっては、「ネガティブな思いを本人に伝えること」というのは、めちゃくちゃなバンジージャンプでしたが

自分の人生を取り戻すために必要なプロセスだったのだな、と思っています。

それでもし、傷ついた人がいるのならば、もう本当に謝るしかできないのですが(やっぱり、ごめんなさい)

でも、その覚悟でやったことなので、後悔はないなぁと感じています。

もしあなたが、無力感や罪悪感を強く感じるようなことがあるならば、その根底にある「助けたい」という形の愛を、良きものとして肯定的に見てあげてください。

その本来の純粋な気持ちは、本当に助けたかった人を助けられなかったという挫折感で、今は痛みに代わってしまっているかもしれないけれど、その思いはいつか必ず、誰かを救う力になると、私は信じてやみません。

ではまた!

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