罪悪感が教えてくれること:申し訳なくなるほどに、誰かを大切に思える素晴らしさに目を向けてみよう

子育て

愛あるみなさま、こんにちは!

サトヒです。

ブログ筋トレしようと思って、別記事を書いていたのですが、予想通り頓挫したまま、話が続かなくなったので仕切り直し…(笑)

最近の私の生活ペースが、少しずつパターン化して参りました。

朝:朝食→娘を保育園に送り出す準備→息子のお風呂→家事(掃除・洗濯)

昼:昼食→昼寝→家事(洗濯物畳む、夕食の準備)→娘のお迎え

夜:夕食→娘の遊びの付き合い→お風呂→就寝

この間、2~3時間置きに授乳。

漠然とした「何もしていない感」があって仕方なかったのですが、こうして見ると、常に何かはしているらしい…。

何かはしているのだが、なぜか「何もしていない感」が拭えないのです。

もちろん、持ち前のマルチタスクぶりを発揮して、日常業務を猛烈にこなしているはずなのだけど、その合間にTV見たり、昼寝したりする余裕があるせいか、どうも自分の中でそっちの印象ばかりが強く

「あー、今日も一日何もしないで終わったわ」という感覚だけが残るという…。

で、その「何もしない」っていうところの、「何も」ってなんなのよ?と考えてみると、「生産性のあること」という言葉が浮かんだ。

「生産性」ってなんやねん、っていう。そもそも、人ひとりをこの世に産み落とした時点で、結構大々的に生産してるやないか、っていう。(謎の関西弁)

人間を育てたり、社会で生産活動をしている人(夫)の生活のサポートをしているのだから、十分「生産性がある仕事」をしていると言ってもいいのではないか。

しかし、それがどうも受け取れないというか、しっくりこないのであーる。URであーる。(しつこい)

以前、そのことについて夫と話してて思ったのは、やはり主婦業的な仕事は、達成感や充実感が感じにくいんだよなぁ、ということ。

また、家族のため(もちろん、そこには自分も含まれて入るのだけど)の雑務が多く、自分自身の心の満足ということが後回しになりがち、ということ。

そして、生活の土台を整えるという、あまりにも生活の基礎的な物事ばかりであるため、やって当たり前な感覚が拭えないし、感謝されにくい、ということ。

だから、なんだか「何かをやった!やり遂げた!今日も一日、自分お疲れ様!」っていう感覚が、持ちにくい。

世の専業主婦が、漠然とした無価値感を感じがちなのは、そういう部分にあるのではないかと思ってみた。

もちろん、主婦業を心から楽しんで、それが高じて仕事になっちゃうようなプロの専業主婦も中にはいるけれど、そこまでのモチベーションが持てる人ばかりではないし、そもそも主婦業が楽しくてやっている人ばかりではないはず。

だから、自分のためというよりはむしろ家族のための作業が多い主婦業には、どこか「虚しさ」のようなものを感じやすいのかも、と思ったんですよね。

悶々とする原因はお得意の…

とはいえ、「何もしていない感」があったとしても、そこに悶々としなければ、それはそれでいいと思うんです。

あー!今日も何もしなかったわー!!あははー!

って思えれば、そこに何も問題はないわけで、むしろ清々しいし、幸せでしょう。

では私がこの「何もしていない感」に対して、なぜこうも悶々とするのか?ということをやまだようこカウンセラーに話したところ、それは「何もしていない罪悪感」なんじゃないか、という鋭い指摘を頂いた。

ざーいあーくかーーーーん!!

来たよ、これ。お得意のやつじゃん。(笑)

言われてみて、確かにそうかもなぁ、と素直に思った。

何となく、自分にはもっとできることがあるはずなのに、やっていないような気がすることに悶々としているような気がする。

本当は、昼寝なんかしてないでブログ書くなり、ココロノマルシェの回答するなり、もっとカウンセラーとして生産性の高いことをできるんじゃないの?

って、どこか自分に期待している。

そう、勝手に自分へのハードルを上げて、過剰に期待をしているのだ。

だから、TVとか見たり、昼寝したり、なんとなくダラダラしてるような自分に悶々とする。

だけどさ、多分今の私には無理なんだよね~。

なんでTV見るかって言ったら、子どもが寝ている細切れの自由時間にできることが、それしかないから。(笑)

なんで昼寝するかって言ったら、寝ないと疲れて、超絶不機嫌になるから。(笑)

必要があってやってるんだからしょうがないんだけど、そういう裏側にある理由を無視して、つい自分に過剰な期待をしたくなるのは、私の武闘派魂なのだと思う…。

それを突き動かす、私の根深い「ざーいあーくかーーーん」よ。

でも、最近私はこの「ざーいあーくかーーん」とのお付き合いが随分うまくなってきた気がしていて

「え?罪悪感は愛に変えときゃいいんでしょ」

という雑な名言!?をぶっこんで、やまだようこカウンセラーにお褒めの言葉を頂きました。(笑)

そもそも、なんで罪悪感を感じるかと言えば、もっと誰かの役に立ちたいから、なんだと思う。

それって、貢献したい愛なんだからしょーがないよねーって。

退院後、私はあまり娘に構ってあげられないことに罪悪感を感じていたのだけど、それも「娘が大好き」だから故の「ざーいあーくかーーん」だし。

不機嫌で夫に当たってしまうことに罪悪感を感じるのも、本当は優しく穏やかに接したいという愛情故の「ざーいあーくかーーん」だし。

息子を夫に預けて、自分のやりたいことを優先することに罪悪感を感じて、なかなかできないのも、息子を気に掛けるが故の「ざーいあーくかーーん」だし。

そう考えたら、どこもかしこも愛しかないじゃん、っていう。(笑)

そう、罪悪感を感じるところには、愛しかないんですよ。

ええ、おシショー様が言ってたことは、本当でしたよ。(笑)

だから、罪悪感を感じる度に、「そこに愛があるんか、いや、愛しかないんか(反語)」と思えばいいって気づいちゃったんですよ。

そしたら、自分を責める理由なんて何もないじゃん、って。

とはいえ、罪悪感を感じると、どうしたって自己否定で悶々とするわけですけど、そこから自分の中でオセロをひっくり返すまでの時間が短くなれば、楽になるわけです。

Facebookで、「心理学を学んで子育てがどう変わったか知りたい」というコメントを友人からもらって、しばし考えてみたのですが

一人目の時も心理学は学んでいて、ある程度知識はあったのだけど、何よりも今と違うのは「自己肯定感」の高さだと思うんですよね。

自己肯定感が前より上がったおかげで、自分責めをしにくくなった。

自分責めをしにくいから、外側の事象にぶち切れにくくなった。(笑)

一人目の時は、夫に切れすぎて、パイプ椅子を床に投げつけて、破壊しましたからね。

そこから「離婚騒動」で大騒ぎして、義実家に駆け込む失態を晒しましたからね。

もちろん今だって、退院早々「食パンの賞味期限」について口論になり、ブチ切れて寝室で号泣するなんてこともありましたけど(驚)

号泣で感情を放出しながらも、心の内側では自分に優しい言葉をかけて、慰めてあげられるようになったのは、長年の自己肯定感修行の成果なんじゃないかなぁと思いましたね。

そう、自己肯定感が前より上がったおかげで、自分に対する言葉がけが全然変わりましたもん。

自分の事をかばえるようになった。自分の味方をしてあげられるようになった。

それが一番変わったことかも。

そのおかげで、随分と世界が優しく感じられるようになりましたぞ^^

全然進んでないけど(笑)、自己肯定処方箋シリーズも参考にどうぞ♡

追記)思う所あり、続きを書きました!

ではまた!

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