愛あるみなさま、こんにちは。
サトヒです。
雑記ブログにもしたためましたが、先日
「他人に気を使ってばかりで自分を見失いがちないい子ちゃん集結!自分の境界線を守りたい同志のための心理学座談会」
を開催しました!(略称:境界線座談会)
境界線と感受性の関係
事の経緯は、先日「他人との境界線」をテーマにした講座を開催しまして
もしや、自分の境界線がうっすいんじゃないか!?と気づいた同志な皆様(ベツレヘムの民)と、共感トークを繰り広げたい!と思ったのがキッカケでございました。
今回、4名のご参加者さんと約2時間あれやこれやとお話をさせて頂いたのですが
(お一人、急遽予定が入ってご参加できずだったので、またの機会にお待ちしておりますね!)
講座でもお伝えしましたが、境界線が曖昧な人って、基本的に感受性が強い人が多いと思っております。
それをHSP気質と呼んだり、女性性が強いとか高いとか呼んだりもするのですが
自分以外のことへのアンテナが高くなりすぎてしまって、周りの情報を拾いすぎてる状態とも言えるかもしれません。
キャッチする情報が多すぎて、そちらにばかり気を取られて、自分の守りが手薄になる感じ。
かつ平和主義で優しい人だと、自分のことより全体の調和や平和を重視しちゃうために、どんどん領海侵犯されて
いつの間にか自分の国なはずなのに、他人に乗っ取られてる状態に。
(とはいえ、他人は乗っ取っているつもりもなく、関所が開いてたから入っただけって感じ)
かといって、乗っ取られることは不本意なので、気づかない間に自分の領土を踏み荒らされて、ふつふつと湧いた不満や怒りが溜まり続け
限界が来たところで
「ここから先に入ってくるんじゃねーよ!!!」
とチコちゃんばりに怒り心頭するわけですな。
その勢いで、ドーン!と相手を突き放すみたいな。
逆に言えば、怒りの魔力(エネルギー)を使わないと、相手を自分の外に追い出せないのです。
めちゃくちゃ溜まった痰を、かーーーーー、ぺっ!!と吐き出すみたいな。(例えが汚すぎる)
しかし、まずここに一つ問題があるわけです。
それは、自分の内側に湧いた不満や怒りを無視しすぎなこと。
感受性が強いってことは、他人の感覚だけじゃなくて、実は自分の感覚もキャッチする力があるってことなんです。
つまり、本当は自分の不満や怒りに気づいているんです。
でも、自分の中に何らかのルールがあって
「これとこれは、感じてはいけないもの」
ってことで無意識に仕分けをしている。
だから、本当はあるはずのものを亡き者にしようと、自分の中で戦いが繰り広げられるのです。
その代表例が
「怒り」
なのですね。
感じたくないから考える仕組み
実際に、座談会でも自分の中の「怒り」を許可するのが難しいという話が出ました。
感受性が強いということは、文字通り「感じ取る力が強い」ということなので、自分の感覚も強く感じやすいのだと思います。
だから、自分の中で湧いた怒りが、すさまじく恐ろしいものに感じられてしまうのだと思います。
座談会では、「地獄の底から響き渡る叫び」みたいな例えをしたけれど、自分で自分のその感覚が怖いんですよね。
自分の中に、そんな恐ろしいもの存在してることに耐えられない。(笑)
だから、頭でぐるぐる考えて、その感覚をなだめようとするわけです。
「いやいや、このくらいで怒るなんて、人としてどうなのよ」
とか
「そんなに怒るほどのことでもなかろう」
とか
「私にも悪いところがあったし、怒れる立場じゃないし…」
とかとか。
「嫌い」
って感覚もわかりやすいですよね。(笑)
「いい所もあるし」
とか
「色々よくしてもらったし」
とか
「悪気があるわけじゃないし」
とか。
まず、そういう思考が湧いてる時点で
怒ってるし、嫌いだと感じてるんですな。(笑)
もちろん、全部が全部そうじゃなくても、実際にその感覚が自分の中にたしかにあるわけです。
だけど、それを認めたくない、感じたくないから、思考がぐるぐるする。
でも、結局感じたものは感じ切るまで消えないのが定説なので
思考程度の力じゃ、感情を抑えきれないのですよ。
わからん奴だな!と、むしろ自分の中で暴れまわる。(笑)
だから、納得できなくて悶々とするわけです。
私は長らく、自分がすごく思考的な人間だと思ってたけど、逆なんです。
むしろすごく感情的な人間で、それを感じたくないから思考を使ってるだけだったのです。
思考の強さと同じくらい、自分は感情的だったということです。
それをおシショーさまは、「情熱の女」とか言ってるのだと思います。
認めたくないけども。(笑)
「境界線」は自分の快不快によって浮彫になる
というわけで、まずはその感覚を自分で受け入れるのが重要なんですよね。
あー、私かなりムカついてるなー。
あー、私この人のことあんまり好きじゃないんだなー。
そんな自分の感覚を受け入れた上で、「じゃあ、どうする?」を決めるのが
「適切な境界線を引く」
ということなのだと思うのです。
自分の素直な感覚が認められない=自分に嘘をつくから、無理に関所を開けることになって、どんどん領土に入り込まれちゃうのですよね。
関所の扉に鍵をかけるためには、鍵をかけるための理由が必要で
感覚派の人にとってその理由になりうるのは、「自分の正直な感覚」なのだと思います。
無理だから、ムカつくから、好きじゃないから、別にドアを開けなくていい。
そのためには、まず
無理だと思ってる自分
ムカついてる自分
相手を好きになれない自分
を許してあげる必要があるのですね。
うーん、言うは易く行うは難しの典型だ。(笑)
感じることは生きること
でも、ネガティブにしろ、ポジティブにしろ、何かを感じられるということは、生きていることの証だと思うのです。
人がお金を出して手に入れようとするのも、本質的には感情とか感覚だって言われますし。
そう考えると、感受性が強い人ほど、濃密に人生を味わってるとも言えるのかもしれません。
自分では嫌だなと思う感情ですら、生きることの恵みであり、豊かさなのかも。
だったら、怖がらずに自分の感覚を受け止めてみても良いのかもしれませんね^^
少しずつでも!
他人と適切な境界線を引けるようになるために、自分の快不快を大切にして
「快」をたくさん集めて、自分の内側を強くすることと
「不快」なものを、なるべく自分の内側に入れないようにすること。
その土台として、自分の感覚をありのままに許してあげることが必要で
それが、いわゆる「自己受容」と言われるものなのだと思っています。
▼自己受容の鬼(?)マミコカウンセラーによる講座で、自己受容力を高めてみるのはいかがでしょう!
参加者の方が
「境界線がハッキリしている人は油絵みたいなもので、境界線が曖昧な人は水彩画のようなものかも。どちらが正しいとか間違っているではなく、どちらにもそれぞれの良さがある。」
的なことをおっしゃっていたのですが、なんて素敵な例え!と感動しまして。
今後、さも私が言ったかのように各所で使う予定なのですが(笑)
まさにその通りで、境界線が曖昧なのが悪いわけではないのですよね。
ただ、それで自分が苦しくなりすぎてしまうのは問題かもしれませんが
水彩画は色をぼかしたり、にじませたりしながら、互いの色が重なり合って、混ざり合って一つの絵となっていきますよね。
それはそれで、すごく美しい世界だと思いませんか。
時には、輪郭をハッキリさせて、色を主張させることも大事だけれど
境界線が曖昧だからこそ描ける、優しい世界もあるわけです。
それはそれで自分の特性だよね~と受け入れつつ、しんどくならない程度に線引きをしながら、自分らしい世界を創っていければいいんだよね!としみじみ感じました。
境界線の曖昧さという柔らかな部分を無理になくそうとせず、自分が大切なものはしっかり守れるくらいの防御力は身に着けて
自分らしい色とりどりの世界を創っていきましょう~!
ちなみに今回の座談会で、感受性が強い人ほど、自分の感覚をそのまま味わうのが難しかったり、感じないようにしすぎてしまう気もしたので
「感情を感じること」についての講座を作ってもいいな…と密かにビジネスチャンスを頂きました。(笑)
座談会、楽しかったので、折を見てまた開催したいと思います!
▼感受性強めな人は、「女性性」を学ぶと自分のことがわかりやすいかもYO!?
ではまた。
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