【エンドレス自己犠牲をやめるには…?】
私達は、自分を愛するようにしか、他人を愛することができません。だから、誰かを愛するためには、まず自分自身を愛することが必要なのです。
持ち前のクソ真面目さを発揮して、愚直に自分を愛することを優先していった先には、きっと今以上に誰かを幸せにできる、レベルアップした自分に出会えるはずです^^
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ココロノマルシェにご相談頂いた内容に回答しています!
初めまして。shiroと申します。現在、体調不良で休職中の23歳です。
相談内容は、タイトル通り『エンドレス自己犠牲をやめたい』というものです。
機能不全家族の家庭で育ったことから派生し、様々な心の問題に悩んでいた時、根本先生のブログに辿り着き、手さぐりながら奮闘を繰り返してきたのですが、人3倍の自己犠牲精神だけはどうしても言うことを聞いてくれないのです。
勉強も学校も部活もサークルも仕事も恋愛も…本当にとにかくクソ真面目に頑張りすぎてしまうのです。
それはそれは実直に。。。
ですが私も特殊能力などなく、普通の人間です。
クソ真面目の中には、相当な自己犠牲精神が共存していることは明確で、最後には力尽き(体調不良、無気力、軽い鬱病)を発症し、再起不能になってしまう人生を繰り返してきました。
安定の流れで、新卒でやっと入社した会社も休職を余儀なくされてしまい、休職期間の問題もあって、退社せざるを得ない状況にもなってしまいました。
正直、好きな業種を選択して入社した会社だったのでとても悔しかったです。
なかなか手ごわい相手だとは理解しておりますが、これから先の人生、もう少し安定して長く付き合っていける人生をどうしても歩みたいと思うのです…。働くことも凄く好きなので、本当に頑張りたい。。。
そんな自分の気持ちを踏みにじるようなことはもうしたくない!!とご相談させていただきました。
辛口アドバイスから優しいものまで、オールマイティーお待ちしております。
(shiroさん)
クソ真面目に、いつも命をかけた全力投球。エンドレス自己犠牲のループにハマり、燃え尽きて灰になりかけた23歳。
まさに自武女の称号にふさわしいshiroさん。
私は、あなたに出会うためにカウンセラーをやってきたのではないかと思うほど、”クソ真面目”を連呼するあなたに運命を感じています・・・。(大げさ)
・・・なぜなら私こそが、自他共に認める?、クソ真面目界代表のクソ真面目カウンセラーだからです!!
「ようやく会えたね」
その言葉を、あなたに捧げたい。
そして、声を大にして言いたいのは
「クソ真面目のイイ子こそが、世界に平和をもたらす!」
という、私なりの信条です。(後でブログに書く予定。)
私は、「自己犠牲は本当の愛ではない」なんてことをのたまったりすることもあるのですが、それでも私は自己犠牲の根本にあるのは「愛」だと信じております。
そもそも、イイ子ちゃんというのは愛情深く、精神性が高い人が多いのです。
生まれ持った愛が終始ダダ漏れて、誰かのために与え続けたいと願う「利他的精神」に溢れている。
イイ子の本質は、そこにあるのです。
だけど、ついついそのエネルギーがビーストモードで暴走してしまい、我を忘れて他者に与えることに夢中になりすぎてしまうために
自らの情熱によって燃え尽き、灰になってもなお、その灰ですら相手に与えようとする、すさまじい執念情熱を見せつけてしまうのだと思うのです。
はっと気付いた時には、自分という存在の影も形も無くなっているほどに・・・。
でもね、大事なのは、どんな能力も使いようなんだと思うのです。
「大は小を兼ねない」し、「帯に短し、たすきに長し」でもありません。
全ては、「過ぎたるは及ばざるが如し」なのです。
「度を過ぎてしまったものは、程度に達しないものと同じで、どちらも正しい中庸の道ではない」
つまり、何事もやりすぎはよくないっちゅー話ですが(ざっくり)、もっと自分とうまく付き合えって、その能力を最大限発揮できたら人生最高だよね!って話ですよ。
じゃぁ、やりすぎないために自分とうまく付き合うにはどうしたらいいの?って言ったら、何よりも自分を知ることが第一歩だと思うのです。
なぜ自分がしんどくなるほど犠牲してしまうのか?
犠牲することで、何を期待しているのか?
どこまでやったらキャパオーバーするのか?
自分には何ができて、何ができないのか?
つまり、自分が無意識に取ってしまう行動の理由と動機、そして等身大の自分のキャパと限界と好みを、です。
「彼を知り己を知れば百戦殆からず」
試験だって、傾向と対策が大事ですよね?
自分がついついやってしまいがちなことを振り返りつつ、自分がありたいイメージを描くことで、少しずつ自分のクセを手放したり、生きやすい自分に近づくことが可能なのです^^
先ほども書いたとおり、そのエンドレス自己犠牲ループに陥るほどの利他的精神というのは、そもそも人として、とても素晴らしい資質です。
逆に言えば、だからこそ、そのエンドレスループから抜け出しにくいという理由にもなり得るのです。
世の中を見渡してみれば、人に与えろとか、他人を優先しろとか、ワガママを言うなとか、他者との協調性ばかりを推奨し、己を捨てて誰かのために生きることを、まるで美徳のように伝える価値観がはびこっています。
だからこそ、「イイ子」こそがたった一つの”正しい”あり方であると、勘違いしてしまうことがあるのです。
しかし、だまされてはいけません!!
我らがイイ子族は、そのクソ真面目さが災いし、言われたことをクソ真面目に真に受けて、その通りにすることを「生きがい」として、支配する側の良い様に使われてしまうという弱点があるのです。
そう、イイ子は「都合がイイ子」になりがちなのです!!
利他的精神は良いことではありますが、自分の人生は自分あっての人生ですよね?
自分が灰になって消えてしまっては、自分の人生を生きる最大の意味がなくなってしまいます。
「私」が「私」として生きるためにこの世に生まれてきた以上、「私」を捨てては本末転倒なのです。
自分が自分という人間だからこそ生まれた、やりたいこと、好きなこと、夢や希望。
それは、他の誰にも思い描くことはできないし、叶えることもできないものです。
それを全うするのが、自分として生まれてきた使命とも言えるのです。
だから、イイ子族は時に鬼畜生に魂を売り渡し、反旗を翻す必要があるのです!!
まずは、そのことを頭の片隅にでもいいので、置いといて欲しいのです^^
さて、ではなぜshiroさんがそんなにも「自己犠牲」しすぎてしまうのか?ということについて考えてみたいのですが
ここでは、shiroさんの家庭環境について言及されていないので・・・と思ったら、「機能不全家族」という言葉があったことに気付いたので、下記内容修正しますが。
「機能不全家庭」が、具体的にどういうものかというのは書かれていないので、一般的な話になりますが、機能不全家庭で幼少期を過ごす一番の問題は、「安心感と愛情を感じられずに大人になること」だと、私は思っています。
そうするとどうなるか。
なかなか安心感を得られないため、不安に振り回されやすく、他者からの愛情を得るために頑張りすぎてしまう、というパターンを自分の中に持ち続けてしまうんですね。
つまり、「頑張らないと愛されない」という思い込みを持ちやすいのだと思うのです。
子どもにとって親というのは、自分が生きるか死ぬかの鍵を握る神のような存在に見えてしまうので、「親から見捨てられる=死」という恐怖を潜在的に持っています。
なので、機能不全家庭でどんなに問題のある親だったとしても、必死に親から愛されるために、頑張らざるを得ません。
それに、そもそも子どもは親を愛してしまうものなので、どんな親であろうと、その親が幸せであることを願い、助けたい、救いたいと思ってしまうものだと思っています。
なので、今”エンドレス自己犠牲”を繰り広げてしまうshiroさんの心の中には、”犠牲してしまうほどに助けたかった誰か”がいるんじゃないかな?と思ったんですね。
根本先生の読者であれば、「投影」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。
投影とは、簡単に言えば、自分の心の中にあるものを、外側に映し出すという心理的機能のことなのですが
私達は人間関係においても、その「投影」という機能を使って、自分の身近な人間関係で身に着けた心の距離感を、他の人間関係にも映し出して、再現してしまうということがあるんですね。
もしかしたらshiroさんは、遠い昔に自分が感じて消化し切れなかった思いを、身の回りの人間関係の中で再現して感じ直してているのかもしれません。
「苦しそうなこの人をどうにか助けてあげなくちゃ」
「私が頑張って救ってあげなくちゃ」
「迷惑をかけないようにしなくちゃ」
「少しでも役に立つように頑張らなくちゃ」
もし、そんな気持ちを身近な誰かに感じていたとしたら、それは一体誰なのでしょう?
>機能不全家族の家庭で育ったことから派生し、様々な心の問題に悩んでいた時
と書かれていることから、生き辛さの中で、親を恨むような気持ちもあるかもしれません。
愛されるために必死に頑張ってきた過程で、どんなに頑張っても頑張っても、親が幸せを感じているようには見えず、自分の力に絶望したこともあるかもしれません。
そんな中で、いつしか「ダメな自分」という烙印を押して、どんどん自分の価値を信じられなくなってしまったのかもしれません。
でも、その根本にあった気持ちは、「愛する人を助けたい」という純粋な思い。
そして、「愛する人に愛されたい」という強い願い。
もしかしたら、そんな相手を身の回りの人に重ね合わせて、その頃の思いを果たそうと、頑張り続けてしまっている・・・なんてこともあるかもしれません。
過去の自分を振り返ってみて、もし何か思いつくようなことがあれば、その当時の自分に寄り添ってあげるようにしてみましょう。
そして、誰かを助けたかった愛を認め、助けられなかったと落ち込む気持ちに共感し、家庭の中で安心感や愛情を感じられずに来た自分の、一番の味方になってあげて欲しいと思うのです。
先ほど書いたのは、罪悪感による補償行為的な自己犠牲ですが、無価値感によって自己犠牲的になりすぎてしまう、ということも考えられます。
その場合、自己肯定感を高めることが重要になります。
先ほども書いたとおり、自己犠牲的なあり方は、社会的に良いイメージが強いため、ついついその自分に価値を置き過ぎてしまう場合があるんですね。
そうすると、逆に自己犠牲的に誰かに尽くさない自分が「悪」になってしまうことがあります。
何かを強く「正しい」と思い込めば、その裏側が必ず「悪」になるのです。光の影に闇が生まれるように。
つまり、イイ子が正義で、悪い子は悪。そんな勧善懲悪スタイルを生み出してしまうのです。
そして、イイ子の特技は「完ぺき主義」だったりするため、ついつい「正しさ」に固執して、自分の「ダメな部分」を否定して隠そうとしてしまったりもします。
そうすると、無意識に自分は自分に”あるべき正しい姿”を課すようになっていくのですが、人間誰しも良い面だけではないため、自分の影の部分を否定する自己攻撃によって、段々と自分が疲弊していくようになります。
そうやって、どんどん自分のエネルギーをすり減らしてしまうんですね。
なので、もしshiroさんの中で「自己犠牲」が、やりたいこと以上に、やるべきことになってしまっているのだとしたら、その手綱を少し緩める必要があるのかもしれません^^
先ほども書いたように、「過ぎたるは及ばざるが如し」なのです。
自分を破壊するほどにやり過ぎるのは、やらないのと同じくらい誰の助けにもならない、ということです。
せっかく生まれ持った「人を愛する」才能ですから^^、うまく自分と相談しながら、大切に使っていきましょうね!
さて、甘口も辛口もいけるという(?)心の広いshiroさんなので、最後にちょっとスピリチュアルな話をひとつ。
先ほどの「投影」の話にもつながるのですが、私達が見ているものは全て、大元の意識(それを神とか創造主とか言ったりします)が見ている幻だと言われています。
そして、私達が別々だと思っているものは全て、実は根本でつながっていて、一つだと言われています。
私が見ているあの人も、そのテーブルも、スマホも、オトンもオカンも、全部自分から生まれた、自分自身の一部なのです。
だから、「本質的には他人はいない。全ては自分である。」ということなのですが、冒頭に、「自己犠牲は本当の愛ではない」なんてことを豪語していますが、それはその考えが元になっています。
他人もまた自分自身ならば、自分を愛さずに他人を愛することはできないのです。それは、半分しか愛していないのと同じことだからです。
目に見えない話を言語化するのはとても難しいのですが、つまり何が言いたいかというと
「自分を愛することも他人を愛することも本質的にはイコールなのだから、まずは自分を愛しましょう。」
ということです。
イイ子族のように、デフォルトで利他的に他人に与えすぎてしまうような人は特に、ですよ^^
私達は、自分を愛するようにしか、他人を愛することができません。
だから、本気で誰かを愛せる自分だからこそ、まずは自分自身を愛するのです。
それが、回りまわって誰かを本当の意味で愛することにつながるからです。
自己犠牲が当たり前になっているshiroさんが、自己犠牲をやめようとすると、最初はきっと違和感が生まれると思います。
人間は、根本的に変化を嫌うようにできているので、今までと違ったやり方は、必ず無意識的に抵抗や摩擦を生じるからです。
でもそれは、新しい自分になるためのイニシエーションのようなもの。
その度に、「自分を愛することは他人を愛することとイコールなんだ」ということを思い出して、まずは自分に愛を注ぐということを優先してもらえるといいな、と思います^^
親子関係においても、私は子どもが自分を愛し、自分の人生を全うして生きることこそが、最大の親孝行になるのだと信じています。
持ち前のクソ真面目さを発揮して、愚直に自分を愛することを優先していった先には、きっと今以上に誰かを幸せにできる、レベルアップしたshiroさんに出会えるはずです!
その時こそ、イイ子族の本領を発揮して、恋も仕事もライフワークも、自分をすり減らすことなく、全力で楽しめる自分になることでしょう^^
shiroさんのクソ真面目道を、心より応援しています!!
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