【おそらく私、自立系武闘派女子です。降参するってなんですか】
「鎧を脱ぎたい」と思った時点で、何かしら自分の中に「こうなりたい自分」が生まれていたのだと思います。
まずは「なぜそうしたいのか?そうすることで、どうなりたいのか?」というのを、自分の中で見つけてみてください。
それさえ見つかれば、必要な手段は自ずとわかってくると思いますよ^^
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ココロノマルシェにご相談頂いた内容に回答しています!
おそらく私、自立系武闘派女子です。
この人生、気に入ってもいたけれど、残り人生少なくなってきて、鎧を脱ぐこと、してみようかなと思っています。
が。
それって具体的にどうやるの?がわかりません。。。言われっぱなし、傷付けられっぱなしであることと、戦わないことが同義に思えて、言い返さない、主張しない。は、自分を大事にしてないことになるのでは?と、そのあたりの区別がつきません。
教えてください。
私は何をしたらいいですか。(すーさん)
「自分らしさ」をとことん追求する、ライフワーク研究家サトヒです!
>おそらく私、自立系武闘派女子です。
数あるサイトの中からココロノマルシェに辿り着いている時点で、立派な「自立系武闘派女子」ですよ!安心して、自信持ってください!!
…あれ?嬉しくない?(笑)
ちなみに、自立系武闘派女子とは…
>この人生、気に入ってもいたけれど
うんうん、そうですよね。自立系武闘派という生き方は、決して悪いもんじゃないと思うんです。
自立心を持って、自分の力でたくましく人生を生き抜いてきて、それ相応の成功や報酬も手にしている人も珍しくありません。
長年やってきた生き方ですから、慣れもあるし、慣れとは居心地の良さにも繋がるものです。
疲れるけど、やめられない。
しんどいけど、手放せない。
そのくらい、自分自身の「アイデンティティ」として、自分の中心に居座っているものなのです。
だから、武闘派女子の「鎧」とは、これまでの生き方そのものであり、自分の存在価値であり、存在意義でもあるわけです。
そりゃ、簡単には脱げないと思うんですけど、どうでしょうか?
そもそも、「鎧」で自分を覆う理由が何かといえば、「鎧」で隠したい自分がいるから、なんだと思うんです。
自分の弱さだったり、頼りなさだったり、自分が「こんなんじゃダメだ」と思い込んで、封印してきたものを、武闘派の方々はその「鎧」の奥底に隠し持っているわけです。
つまり、「鎧」を脱ぐということは、自分が否定してきた自分を、「これが私です!」と世に晒すということ。
それって、相当の覚悟と勇気が必要だと思いませんか?
そして、「降参する」というのは、これまで何でも自力でこなしてきた自分を捨てて、「もうこれ以上頑張れません、助けてください」と自分の腹を見せることだと思うのです。
自分でどうにかするしかない
他の人は当てにならない
誰も頼りにならない
私は誰にも助けてもらえない
私は誰にも認めてもらえない
自立して、一人で頑張ってきたのは、そんな思い込みが隠れているからかもしれません。
そんな思い込みがある状態で、「誰か助けてください」なんて、口が裂けても言えないと思うんですね。
でも、そうすることで変わる何かがあると思うから、自分の弱みを全てさらけ出して、諦めて自分の全てを受け入れて、「降参する」ということを選択しようと思えるのだと思うのです。
なので、まずすーさんにお伺いしたいことは、「なんで降参したいと思うの?鎧を脱ごうと思ったの?」という動機の部分なんですね^^
ご相談文には、どのあたりで自分を武闘派だと思ったのか、なぜ武闘派という生き方に至ったのか、それで何か困ったことがあったのか、どうして鎧を脱ごうと思ったのか、といった詳しい背景は書かれていないのでわからないのですが
「降参する」のも「鎧を脱ぐ」のも、幸せになるためや、自分らしく生きるための手段でしかないんですね。
手段は、何かの目的を達成するためのものですから、まず自分の「目的」の部分をはっきりさせた方が良いと思ったのです。
目的とはつまり、それをすることで、自分はどうなりたいのか?ということです。
ライフワークビジョンなんて風にも言ったりもしますが、鎧を脱いだ自分が、どう生きていきたいのか?という部分を、まずは考えてみて欲しいのです^^
鎧を脱いだ自分は、どんな自分になっているのでしょう?
降参することで、自分の中で何が変わるのでしょう?
「鎧を脱ぎたい」と思った時点で、何かしら自分の中に「こうなりたい自分」が生まれていたのだと思います。
そこに、少し想いを馳せてみてはいかがでしょうか?
>言われっぱなし、傷付けられっぱなしであることと、戦わないことが同義に思えて、言い返さない、主張しない。は、自分を大事にしてないことになるのでは?と、そのあたりの区別がつきません。
そうですね、言われっぱなし、傷つけられっぱなしの自分を放置するのは、自分をないがしろにしているようにも見えますよね。
鎧を脱ぐことが怖いのは、身一つで戦場に出たら、他者の攻撃でボロボロになって、立ち直れなくなるんじゃないかという不安があるからだと思うんですね。
でも、本当にそこは戦場なんでしょうか?
自分の身の周りを、鎧を脱いだ途端に、敵に寝首をかかれるような、激しい戦場に見せているのは、すーさんの内側にある何かだと思うのです。
人が自立するのは、依存時代の心の傷が原因と言われています。
依存時代に傷ついた分だけ、依存を嫌い、自立しようとするんですね。
先ほども書きましたが、すーさんの心が自立するに至ったのは、過去の経験の中で
他の人は当てにならない
誰も頼りにならない
私は誰にも助けてもらえない
私は誰にも認めてもらえない
そんな思いを感じてきたからなのかもしれません。
そんな痛みを感じたくない分、自立して、心を守ろうとするのです。
そもそも、鎧を脱ぐということは、相手からやられっぱなしになることではなく、戦場から立ち去るという選択です。
戦うのをやめて、敵だと思ってきた相手に助けを求める、甘える、許しを乞う、ということです。
できないことを認め、抱えきれないことを手放し、足りない自分を受け入れ、無理なことは誰かにお願いする。
いやぁ、考えただけでゾッとしますね~。(笑)
そもそも、これまですーさんが傷ついてきたのは、どういう出来事だったのでしょう。
どんな場面で、どんな言葉で傷つき、相手に言い返したり、主張したくなるのでしょう。
そんな時、本当にわかってもらいたかった気持ちって、なんだったんでしょう。
自分が鎧を着こまなければやっていけなかった出来事を振り返ってみると、何か共通点が見えてくるかもしれません^^
もちろん、いつも言われっぱなしの人が言い返したり、傷つけられっぱなしの人が反論したり、自己主張したりするのは、「自分を大切にする」ということにもなりますよね^^
私が思うに、「自分を大切にする」というのは、「自分の味方をする」ということでもあるんですね。
それは、もちろん自分の思っていることを、相手に主張することもそうですが、傷ついた自分に寄り添うことだったり、自分に優しい言葉をかけることだったり、自分の良いところを認めてあげるとか、自分を責めるのをやめるとか、そういうことも含むと思うんです。
いわゆる、「自己受容」ってやつです。
そうやって、自分で自分の味方をすることができるようになってくると、自然と相手を敵とみなす必要もなくなり、過剰に鎧を着こむ必要もなくなっていきます。
自立を手放して、周りの人を信頼していく。
そうしていくうちに、自然な自分らしさが出せるようになっていきます。
肩の力を抜いて生きることができるようになっていきます。
自然体という言葉の意味が、体感でわかってきます。
頑張らなくても愛される、認められるということが理解できるようになります。
そんな風に、本来の自分を取り戻していくための手段として、「鎧を脱ぐ」とか「降参する」というステップをオススメしているのですね^^
それがいわゆる、「相互依存」という生き方でもあるのです。
>私は何をしたらいいですか。
アプローチは色々あると思うのですが、まずは「なぜそうしたいのか?そうすることで、どうなりたいのか?」というのを、自分の中で見つけてみてください。
それさえ見つかれば、必要な手段は自ずとわかってくると思いますよ^^
手前味噌ですが、カウンセリングの力を借りて、自己探求するのもオススメです!
すーさんが、鎧の中に隠した自分らしさの輝きを、恐れることなく表現できるようになることを祈っています!
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