”反応”から距離を置く:思い込みから目を醒まし、エゴから自由になる方法

オカン問題

愛あるみなさま、こんにちは!

サトヒです。

一応妊婦ということで、カフェインを取りすぎないようにというのを意識しているのですが

元々、家で飲むコーヒーはデカフェのものを選んでいましたが、最近はどうも紅茶が飲みたくなるのですよね~。

家にあった紅茶は、普通にカフェインが入っているものだったのですが、最近出かけた先でデカフェの紅茶を見つけたので、買ってみました。

ルピシアの白桃紅茶です~。

お湯で入れて、少し冷めたところで、氷を入れたコップに注いでアイスティーにしています。爽やかで、うまい!!

(写真を撮るときは、メインとサブの被写体の間に何か置くと、トライアングルになってバランスよく映えるらしいよ。ということで、じーじが作ったにんにくを置いてみた。)

さて、ワタクシ明日から夏休みに入るので、ウキウキウォッチング(?)な今日です。

本当は、特に急ぎの仕事も入ってないし、今日から休んじゃおうかなーって思ってたんだけど、とりあえずPCは立ち上げておくことにしました。(笑)

みなさまは、夏休みはいかがお過ごし?

GOTOが東京対象外になって、予定していたお出かけをキャンセルした人もいるのかしら。

自粛しろとか、帰省してもいいとか、しないでくれとか、国だか地方自治体だか知りませんが、色んな意見があるみたいですね。そんな状況だからこそ、ますます自分軸が試されているような感じ。

私は、中盤に少しだけ実家に帰ることにしました。こないだ帰ったばかりだけど。

で、その件でオカンとLINEのやり取りをしてたのですが、改めて「うちのオカンって、こういう人だったわーーーー!!!」と感じる出来事があったので、愚痴ついでに書いておく。

前回帰省した時に、娘が友人の家に急遽お泊まりをしたのですよ。(友人にも、ちょうど同じ年の娘がいる)

それが、彼女にとっては人生初の一人お泊まりだったわけですが(祖父母宅は除く)、相当楽しかったみたいで、「また次もお泊まりする!」と張り切っているわけです。

なので、

「実家には行くけど、娘は一日お泊まりに出かける予定です。」

とオカンに伝えたところ

「大丈夫なの?」

との返答。

ん?何が大丈夫ってこと?こないだもお泊まりしたし、何を心配してんだ?

と思って、色々突っ込んで聞いてみるのだが、主語がなくて、何が言いたいかわからない歯切れの悪い返信。

意味がわからなすぎて、段々とイライラしてくる私。(オカンに対して、特に超気が短い)

段々と

「は?それは泊まりに行かせるなってことが言いたいわけ?」

と思い始めたのだけど、とりあえず色々と論理的に詰め寄って、オカンが何を「大丈夫?」と思っているのかを聞いていったところ

結論としては

「うちの娘と友達の娘が、一緒に楽しく遊べるのか」

が心配だったらしい。

いや、それは杞憂でしょう。前回は仲良く遊べてたって言ったし、そもそも本人が行きたいって言ってるんだからね?

と、とりあえず前回の経験を伝えて、仲良く遊んでる写真を見せたところ

「大丈夫そうだね」

との返信。

なんだろなー、言いたいことがいつもよくわかんないんだよなー。

なんつーの?なんか、本音を隠してるように見えるというか。

そんな様子を見ると、私はいつも自動思考で

「私がやろうと思っていることに反対している」

と捉えてしまうのだ。

うちのオカンは、単純に心配症なのだと思う。

そして、圧倒的に語彙力が少ない。

自分でも昔言ってたけど、思ってることがうまく言葉にならないんだって。

だから、とても少ない言葉で、私がやろうと思うこと、やりたいと思うことに対して、不安からネガティブなコメントを発してくるのである。

その言動の根底にあるのが、”心配”という名の愛情であるということが、なんとなくでも理解できるようになったのは、私が相当歳を取ってからの話。

今でこそ、これでこそ「我がオカン!」と思えるようにもなりつつあるけれども。(苦笑)

だけど若かりし頃の私は、いつも自分の思うことに「ダメ出し」をされているように感じていたのである。

そして、いつの間にか私の中には「オカンはいつも私がやりたいと思うことを否定する」という図式ができあがってしまった。

そして、私はその思考(思い込み)を元に、目の前の出来事に無意識に反応することを繰り返してしまうのだ。

「やっぱり、私がやりたいと思うことは否定されるんだ」

と。

そういえば、その思考パターンはオカンだけに留まらず、恋人や夫にも投影され、自分がやりたいと思うことがあっても、「否定されるんじゃないか?」という怖れが先に出て、ついつい相手の顔色を窺うのが癖みたいになっていた。

幸いなことに、そのパターンは友人関係の中ではあまり問題になることはなかったのだけれど、思い返してみれば、自分の夢だったり、好きなものを人に話すのは苦手で、自己開示が恥ずかしくて仕方なかったのは、どこか「否定される」怖れがあったからなのかもしれないなぁ。

しかも、「どうせ否定するんでしょ」モードになると、「罪悪感」がもれなくおまけで付いてくるのです。

否定されている(と感じる)ことをやるのは、イイ子でいたい気持ちとの葛藤を起こすので、とても罪深いことに感じるから。

でも、今回オカンと話してみて、何が言いたいかわかんないイライラはあったものの、瞬間湯沸かし器的に「どうせ否定するんでしょ」みたいな気持ちにはならなかったのは成長だなぁと感じたのでした。

一瞬、自分の無意識の”反応”は垣間見えたけど、その”反応”に飲み込まれずに、相手の真意を聞こうと動けたのは進歩だと思うわけです。

”反応”してる時って、相手の気持ちを勝手に解釈して、自分の思い込んだ相手の気持ちを真意と判断しちゃってる状況なんだと思うんですよね。

そういう”反応”は、実は一日の中で何度も起こっているわけで、特に古い痛みに触れるような出来事であればあるほど、強く反応がでやすいわけですな。

だから、大きく感情が動いてしんどい時は、大抵その”反応”に大きく飲み込まれている時なのかもしれない。

私の場合、「自分のやりたいことは否定される」という思い込みが、「私がいると迷惑」という回路につながって、最終的には「私なんていなければよかった」というところに帰結するのが毎度のパターンだった。(さすがに、今はほとんどそういうことは無くなったけど)

むしろ、そもそもの根っこが「私なんていなければよかった」という思い込みだったのかもしれないけど。そこに行き着くために、その時々で適当な理由付けが必要なだけで。

だから、その自分が痛みを感じる思いを喚起させるような出来事がある度に、一連の無意識的な”反応”に流されて、自力ではなかなか引き返せないところまで、ずるずると落ちて行ってしまうのだった。

だから、今の私が過去と違うのは、自分の”反応”から距離を置いて、少しばかり客観的に眺めることができるようになった部分なのかもしれない。

もちろん、どうしようもなく飲み込まれてしまうようなことはあるけれども、それでも前よりは、その感情や反応、自動思考の根っこにある、自分の思いに触れようと思える余裕を取り戻すことができるようにはなったような気はしている。

多分、この”反応”っていうのは、スピリチュアル的にいえば「エゴ」というやつなんだと思う。

エゴ的思考を元に計算された結果として、自分の身体に現れる反応。

でも、そもそも「エゴ」っちゅーのが勘違い野郎なわけだから、その誤解は自分で解いてあげなきゃいけないのよね。

そのカギになるのは

「本当にそうなのかな?」

っていう視点。

それは、自分の思い込みに風穴を開けるための、小さなきっかけになるものかもしれない。

自己否定とか、自分責めとかもそうで、それもまた自分の「反応」なんだと思う。

出来事の原因を、無意識に「自分のせい」にする。

それは

「自分が○○だから」

という自分に対するネガティブな思い込みが先にあって、それを元に無意識に反応すると「自分が悪い」ということになっているわけだけど。

でも、それも本気で立ち止まって

「本当にそうなのかな?」

と考え直してみたら、実は自分だけが悪いとか、自分だけのせいなんてことは無いってことが見えてくるんじゃなかろうか。

だから、感情がぶわーって出た時は、ちゃんとその感情を感じ切った先に(これ大事)一度深呼吸して、「本当にそうなのかな?」と自分の”反応”から一歩離れたところから、自分を客観視してみましょうか^^

やっぱり、外側に反応するときって、内側に何かあるもんよね。

それを一つ一つ許し、手放していくのが、3次元世界を生きる楽しみなのかもしれまへんな。

ではまた!

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