長所と短所は紙一重:人の良さが見えるときは、同じ分だけ自分の良さも見てあげよう

自己肯定感と自己受容

愛あるみなさま、おはこんばんちわ。

サトヒです。

今日も今日とて、ブログのリハビリ中です(4日目)

いつまで続くのか?という感じなのですが

おそらく、「書こうと思えば書けるな」と思えた時がひとまずのゴールなのかなと。

以前、こちらのブログにも書きましたけど

自信の本質的な感覚は、「やろうと思えばできる」と思えているかどうかな気がしているので

逆算的に考えると、今の私は、書くということに自信が無くなっちゃってるのかもしれない…

書きたい気持ちはあるのに、どうしても書けない、思うように言葉として出てこない。

その感覚が不安になって、ちょっと焦っちゃってたのかも。

ってなわけで、コツコツリハビリを積み重ねて、「書く」ことに慣れていくのみですな。

ということで、今日のChat GPT先生による解説は(笑)

人は自然と他人の持っているものや得意な部分に焦点を当てがちですが、その逆の視点も大切です。自分の特徴や良さを認識し、受け入れることが、自己肯定感を高め、自己成長にも繋がります。そして、他人の良さを認め、尊重することも大切なことです。

また、他人の成功や良さを見たときに、その裏側には必ず何かしらの犠牲や努力があることを意識することで、うらやましさを和らげることができます。人はそれぞれ異なる道を歩んでおり、目に見える成功や良さだけでは他人の全体像を知ることは難しいですが、その裏にある努力や犠牲も含めて尊重し合うことが、より良い関係を築く一助となります。

最終的に、自分を愛し、他人を尊重することが、心の豊かさと幸福感をもたらす重要なステップであると言えます。

相変わらず、優秀すぎて笑っちゃうわ(笑)

もはや、これ以上読まなくて良し。

人の良い所が見えるという才能のデメリット

先日、こちらのイベントが無事終了しました!

久々の鬼畜生活動でしたが、安心感がパネェ…

来てくださったお客さまも、みなさん優しくて柔らかくて素敵な方ばかりで。

初めて顔を合わせた相手ばかりだというのに、お互いの気持ちに寄り添って頂き、本当に温かい場を作って頂きました。

別途、頂いたご感想なども含めて、開催レポをブログに書こうと思うのですが(毎度遅くて申し訳なす)

イベントの中で、参加者のお一人が、他の参加者の良いところを伝えてくださるという場面がありまして。

それを見て、人の良いところを見れるって、素敵な才能だよなぁとしみじみ感じたのですよね。

ただ、人の良いところ=人の持っているもの・ことを素直に見られる人って

その分、自分が持ってないもの・ことが際立って見えてしまって、落ち込むこともあると思うのですよね。

逆に言えば、自分にないものを自覚しているからこそ、他の人にあるものが輝いて見えるとも言えるのかもしれません。

自分に余裕があって、少し引いて見られている時には、純粋に「あの人、素敵だなぁ」と思えるけど

何かで自分が落ち込んでいるような時は、相手の持っているものがギラギラと眩しすぎて、「どうせ私は…」という自虐モードにも入りがち。

それでも、前述の通り、人の良いところを見られるというのは素敵な才能だと思うのですね。

だから、まずはその自分を全肯定してヨシ!

(かくいう私も、自分に自信がない分、他の人の素敵なところがいっぱい見えるタイプよ!ドヤ!笑)

あぁ、正負の法則

で、それでも落ち込むような時に考えるべきことは

どんなに他の人が素晴らしく見えても、長所と短所は紙一重であって、持っている陰陽の割合は一緒

だということだと思うのです。

私の尊敬する美輪様も、「正負の法則」として語っていらっしゃいますが

華やかな表舞台があれば、地味で厳しい裏舞台があり、大きな成功を手にした人は、ほとんどが相応の犠牲を払っている。光があるところに影がある。それが “正負の法則″ というものです。

https://gendai.media/articles/-/63469

「何かを得れば、何かを失う」

そう書くと、なんか不穏な感じもしますが(汗)

それは時系列的に発生するのではなく、同時発生的に起こっていると思うのですね。

単純に言えば、「何かを買ったら、お金がなくなる」場合。

それって、物とお金を交換してますよね。

お金を失った時、同時に物を得ている。

目に見えないものも同じで、例えば長所と短所はコインの裏表であり、長所が存在するとき、同時に短所が存在しているわけですね。

だから、どんなに誰かの何かをうらやましいと思ったとしても

その人には、うらやましいと感じる部分の裏に、そうではない部分も同時に存在しているわけですね。

それは、もちろん逆も然りで、自分もそう。

例えば、私は怖がりなので、石橋を叩いて叩いて、叩き壊して渡れなくする(笑)ことが多い慎重派だと思っているのですが

それをネガティブに感じている時は、やはり行動力があって、フットワーク軽いタイプがうらやましくくなります。

自分の性格の悪さにうんざりしているような時は、素直に物事を捉えられる純粋な人がうらやましくなるし

自分の理屈っぽさがめんどくさいと感じてる時は、自分の感情・感覚を自由に表現している人がうらやましくなるし。

人(脳?)は「欠けているもの」に目が行きやすいものだし

自分が欠けているものを持っている(ように見える)人がいたら、自動的にうらやましくなるのも自然の摂理だと思うのですが

立ち止まってよくよく考えてみれば、自分が見えている素敵な部分の裏には、デメリットというか、リスクのようなものも存在しているのが見えてくる。

素敵に見える部分の裏には、必ずデメリットになる何かが存在している。

(注:メリット・デメリットは自分が判断するものなので、相手がそれをデメリットと感じているかどうかは別の話)

なので、あまりにも誰かの何かをうらやましくなって、精神的に不安定になるくらいだったら

強制的に否定的な視点を引き出して、自分の偏った考えを疑ってみるのも大事なのかもしれません(笑)

またもや、わかりやすい(?)のでお金で例えると

例えば、私がうらやましく感じがちな”フッ軽タイプ”の人は

100万円を得ているように見えて、その100万円を得るために100万円支払っているとする。

逆に、慎重派な私はリスクを恐れるので、20万失うことで20万を得ているとする。

総量としては、どちらも±ゼロなわけです。

つまり、得ているものの大きさに目がくらんでうらやましくなったとしても、それと同時にその人が失っているものも大きいわけです。

ただ、そちらを見てないだけ。目に入らないだけ。

両者の違いは

失う金額が大きくても、その分大きな金額を得る方がいいのか

得られる金額が小さいとしても、失う金額が小さい方がいいのか

という、好みの問題なんじゃないかと。

前者の場合は、得られる金額が大きい分、失うものが大きくても気にならないし

後者の場合は、得られる金額が少なくても、失うものが小さい方が気にならない。

この辺は、元々生まれ持った気質の影響もありそうですよね。

元々の気質が違うのに、自分ができないことをできる人をうらやましがってもしゃーない。

今世は自分として生まれてきたのだから、自分に合った生き方をするのが、自分の役割なんだと思います。

とはいえ、こうしてあれこれ理屈をこねたとしても

それでもやっぱり自分の持っていないと感じるものをうらやましくなるのは、前述の通り自然の摂理なので

「相手に見えるものは、自分にもあるもの」

という投影的戦略で、相手のものを自分のものにしちゃうのも良し

相手に見えるものの裏を冷静に見ることで、逆説的に自分にあるものの良さを再認識するのも良し。

(後者は鬼畜生度高い)

私の場合、ぐだぐだあれこれ考えすぎるのは、「思慮深さ」(別名:考えすぎ)という長所とも言えると気付きました。

そして、私はその「思慮深さ」によって救われていることも多々あるのですよね^^

慎重に考える分、大きな損失になるようなことはしにくいし

あれこれ私が思考でこねくり回すことを、面白いと感じてくれる人もいる。

いちいち深く考えるから、物事を短絡的に決めつけずにいられる。

まぁ、自分の中では考えすぎてめんどくせーって思う時の方が多いのですが(笑)

冷静に考えたら、みんなそれぞれに±ゼロなんだったら(超極論)、そんなに気にすることないんじゃないかなと思った次第です。

まぁ、何の救いにもならない話だったかもしれませんが

どんなに周りの誰かや何かがうらやましくなったとしても

「自分だって、そんなに悪いもんじゃないよなぁ」

と、少しでも思ってもらえたら光栄です。

結論、この世を生きる大きな目的の一つは

「自分を愛すること」

でもあると思うので

結果的には±ゼロであったとしても、自分のプラス部分を積極的に受け取ってあげられたらいいですよね^^

ではまた!

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