【依存と自立】
「自立」には、ネガティブなものとポジティブなものの2種類があって、ネガティブな「自立」の裏には満たされなかった思い(ニーズ、欲求)が隠されていることが多いのです。
「自立」しているつもりでも、自分の価値を他者の評価に委ねて(依存して)しまって、なかなか自分に自信が持てないならば、どこか満たされなかった思いが”心の古傷”として疼き続けているのかもしれません。
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タイトルの件ですが、私は自分に自信がありません。
自信が湧いてこない為、何をするにも不安がつきまといます。
特に対人関係が苦しいです。嫌われないようにする為なのか、人前では異常に緊張し、自分が何を話しているか分からなくなったり、相手の話が頭に入らないほどです。
また、自信がないからか、他人の評価に依存しています。
だから、出来る自分に依存し、他人の評価を得ることに依存しているような感覚です。
物への執着も強いと思います。
これも、自分に自信がないから、身の回りを自分をよく見せる為の物で埋めようと依存している感じがします。きっかけは分かりませんが、自信がない部分は、中学時代にいじめにあったことなのか
お恥ずかしながら、小学生の頃に万引きで捕まり、両親に怒られて以来、両親に怒られるのが怖くて、上手く親子の関係を築けなかったことなのかなぁと、なんとなく思っています。
自分は、自分が出来るようになること、一人前になること、しっかりすること、男らしくなることを自立だと思っていましたが、それが実は依存だったのかなぁと思ったりしています。
自分には、自立が必要なのか、人を頼る、人を信頼する意味での依存?が必要なのか分かりません。
まとまりが悪くすみませんが、宜しくお願いします。
(がーすーさん)
「自分らしさ」をとことん追求する、ライフワーク研究家サトヒです!
自信がないから依存してしまうのか、依存しているから自信がなくなるのか…卵が先か、ニワトリが先か、みたいなコロンブスの卵的永遠の命題な気もしますが(汗)
私も、長らく「依存を隠した自立」の期間が長く、自分に自信が持てなかった時期が長かったので、がーすーさんのお気持ちがよくわかるんですよね。
頭では、「しっかりしなくちゃ」とか「人に頼らず何でもできるようにならなくちゃ」とか「大人にならなきゃ」と思って頑張るのに、その気持ちに反比例するかのように、どんどん自分に自信がなくなっていって、自分一人では何もできないような気持ちばかりが募っていく…。
そんな悪循環にハマってしまうことも多いのではないかと思います。
なので、今のがーすーさんは一見「自立」しているように見えるけど、裏では「依存」を隠している、「自立の依存」という状態と言えるのかもしれません。
お師匠さんのブログに、こんなわかりやすい記事がありましたよ!(必殺・他力本願)
多分、がーすーさんも普通に「自立」できてる場面もあれば、なぜか「依存」的に相手の評価を求めたくなってしまう場面があるんじゃないかと思います。
それが、仕事だったり、恋愛だったりと人によって様々なのですが、自分の価値を感じたい気持ちが強い場面ほど、隠していた「依存心」が出やすくなってしまうように思います。
「依存」と「自立」とは?
ということで、そもそも「依存」と「自立」って何なのよって話なんですが
「依存」というのは、成長過程で人間誰しもが通る道です。生まれたばかりの私たちは、自分では何もできない状態ですよね。お腹が空いても、疲れても、眠くても、その気持ちを自分一人ではどうすることもできないので、養育者である大人に自分の身の回りの世話を「依存」せざるを得ません。
つまり、「依存」というのは自分一人では何もできない状態で、他者の力がなければ生きていけないような状態のことを指します。
それはある意味、自分の”生存可否”を相手に握られている状態でもあるので、立場的にはとても弱いものなのです。だから、自分の命の鍵を握る相手に、身を委ねるしかないわけですね。
「依存」が子ども時代を指すならば、「自立」というのは、そこから一歩「大人」へと向かうステージです。
自分の身の回りの全てを周りの誰かに「依存」せざるを得なかった時期を経て、がーすーさんが感じたように「自分でもっと出来るようになりたい」「一人前になりたい」「しっかりしたい」という思いから、自分の足で立とうと思う段階へと移行していきます。
ただ、この「自立」というのは、ポジティブなものとネガティブなものがあると言われています。
ポジティブな「自立」は特に問題はなく、前向きに「誰にも頼らずに自分で頑張ってみたい」という気持ちを感じられるものなので良いのですが
ネガティブな「自立」というのは、「依存」期に満たされなかった心の分だけ(つまり、自分の依存心が思うように満たせなかった場合)、「もう誰にも頼りたくない」「自分でどうにかするしかない」「どうせ誰も助けてくれない」というように、自分の心の痛みから逃れようとして、いわば自分の心を自分で守るために「自立」せざるを得なかった状況のことを言います。
つまり、ネガティブな「自立」の裏には、大きな「ニーズ(欲求)」が隠されているものなんです。
「本当は、こうして欲しかった。こうされたかった。だけど、それはもう自分には手に入らないものだと諦めたので、自分ひとりでどうにかすることにした」
そんな悲しい思いを抱えたまま、”頑張って”自立しようとしている状態なんですよね。
感情というのは、一度感じたら消化するまで無かったことにはできないものなので、常に心の奥底には「本当はこうして欲しかった。こうされたかった。」という思いが付きまとい、それに伴う心の痛みが人生の様々な場面で表出することになります。
がーすーさんの場合でいえば
>出来る自分に依存し、他人の評価を得ることに依存しているような感覚です。
と書かれていたり、”嫌われないようにするため”とか、”自分をよく見せる”などのワードも出ていましたので、心の奥底に
「もっと認められたかった。」
という満たされなかった思い(ニーズ)や、それに伴う「寂しさ」が強く残っているのかもしれませんね。
裏を返せば、「自分は認められなかった」という心の痛みが強いのかもしれません。
そうすると、行動の前提が「どうせ自分は認められない」という思い込み(観念、ビリーフと呼んだりします)になってしまうため、どうにか自分を認めてもらうために必死になってしまうんです。
その結果、「人からどう思われるか」が行動の理由になってしまうので、どうしても判断基準の軸が「他人」に移りやすくもなります。つまり、他人軸ってやつですね。
とはいえ、「他人」の気持ちや行動、ましてや自分への評価なんて、自分ではコントロールできないものですから、相手の一挙手一投足に振り回されやすくなりますし
なにより自分の前提が「自分は認められない」という思い込みでできているので、どうしても相手の行動の端々から「自分を認めていない証拠」ばかりが目につきやすく、人から認められるつもりで行動しているつもりが、逆にどんどん自信がなくなってしまう負のスパイラルにハマりやすくなってしまうのです。
それが、「依存」が出てしまう時のしんどい部分なんですね。
痛みを乗り越えた先にある「相互依存」のステージ
じゃあ、どうしてがーすーさんが
「自分は認められない」
という思いを抱くようになってしまったのか、今回のご相談からは詳しくは読み取れないのですが、ご自分でも振り返っていらっしゃるように、ご両親との関係性の中で、何かそういった感覚を抱いてしまう経験があったのかもしれません。
これは、私の完全なる邪推ですが
>お恥ずかしながら、小学生の頃に万引きで捕まり、両親に怒られて以来、両親に怒られるのが怖くて、上手く親子の関係を築けなかったことなのかなぁと、なんとなく思っています。
と書いてくださっていますが、万引きをして捕まるよりもずっと以前から、がーすーさんの中に「自分は認めてもらえないんじゃないか?」という不安があったのではないかな?と思うんですね。
その結果として、「万引き」という行動をとって、何かご両親に訴えられずにいた気持ちを表現したのかもしれません。
そこは、もう少しご自分の過去を振り返ってみて頂けると、何かヒントが見つかるかもしれませんね^^
>自分には、自立が必要なのか、人を頼る、人を信頼する意味での依存?が必要なのか分かりません。
この「依存」と「自立」という成長プロセスには、その先があって、それを「相互依存」と言います。
簡単に言えば、一人でも生きていける自立した大人が、あえて助け合う関係性とでも言いましょうか。
「自立」が極まると、全部自分で抱え込もうとして苦しくなってしまうのですが、人間それぞれに得手不得手があって、自分でできることで人を助け、自分でできないことは人から助けてもらうという関係性を築いていくのが、最も平和で幸せな人間関係なんですよね。
がーすーさんは、既に「自立」している部分はあるものの、その陰に満たされないニーズを隠していて、その痛みに振り回されてしまうことがあるので
まずは、その痛みとしっかりと向き合い、癒すこと。
そして、過度な「自立」を手放し、人を信頼し、助け合える「相互依存」のステージへと移行すること。
が必要な時期なのかもしれません。
他人から「認められない」と感じるのは、自分が自分を認めていないから
多分、がーすーさんは「完璧な自分」「できる自分」じゃないと愛されないと思っているのだと思います。
そして、認められないことを心の底でとても怖れている。
でも、それって本当ですか?
そもそも、そう思い込んでいるのは、誰よりも自分自身が、「完璧ではない自分」や「できない自分」を嫌っているからなのではないですか?
私たちは、自分の中にあるものしか外側に見ることができません。(それを”投影”なんて呼びますが)
つまり、自分が自分を認めた分しか、他人からの評価を受け取れないようにできているのです。
他人の評価で自分の価値を決めているのではなく、実は最初から自分で自分の価値を決めているんです。
その自己評価を元にして、それに見合った他人の評価を、自分の都合よく取捨選択して受け入れているだけなのです。
本当は、「完璧じゃない自分」や「できない自分」も、既に周りから認められていたのではないですか?
ありのままの自分でも、ステキだよって思ってくれる人もいたのではないですか?
それがうまく信じられないのは、その評価を受け取れないのは、自分で自分の価値を認められていないせいなのかもしれません。
じゃあ、もっと自分に自信を持つにはどうしたらいいの?って話になると、いつもの「自己肯定感」というオチになってしまうのですが…
自分の欠点を許し、受け入れること。
自分が既に持っている価値をしっかりと認めること。
が重要なステップになるのではないかな~と思います^^
過去にこんな記事も書いたので、ご参考まで。
ということで、こんなワークはいかがでしょうか?
① がーすーさんが、完璧じゃなくても愛される理由はなんでしょう?そのままの自分で既に認められているとしたらどうしてなのかを、「もし自分が認められているとしたら」という視点で考えて、50個くらいリストアップしてみましょう。
② 自分の良いところ、長所、できること、人に与えられたこと、なんでもいいので、こちらも50個くらいリストアップしてみましょう。「認められない痛み」を抱えながらも、認められるために頑張り続けた自分を振り返って、大きな花丸を上げましょう。
「認められていない」と感じるのは、幻想なんです。自分で何でも出来るようになろうと、一人前になろうと、しっかりしようと、男らしくなろうと、ずっと意識してきた中で、たくさんの能力を身に着けてきたはずだし、たくさんの価値を人に与えてきたはずなんです。
そんながーすーさんが、認められていないわけがないのです。
どうか、ご自分の努力と存在価値に気付き、他者からの評価があろうとなかろうと、誰よりも自分自身で、これまでの自分の頑張りをしっかりと認めてあげてくださいね^^
がーすーさんが、「認められない」という長年の誤解を解き放ち、自分の価値を自分自身で認められるようになることを、心から祈っています!
ではまた!
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