【好きになると振られる、という観念について】
今回の回答のポイントは
・否定的な「観念」の根っこには、過去の経験による痛みから来る「絶望と怒り」が眠っているのかもしれません。
・自分の理想の「愛され方」にこだわると、それ以外の愛が受け取りにくくなるので注意が必要です。
・「欲しかったのに得られなかったものは、自分が与えに来たもの」という説があります。「愛したい情熱」を分散させる何かを探してみるのはいかがでしょうか?
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ココロノマルシェにご相談頂いた内容に回答しています!
先生方いつもありがとうございます。
人との関係性について、またご助力いただければ嬉しいです。昔から、誰かに””一番に””愛されたい、という願いが強いのですが、
先日「私が好きになると、その人に振られる」という観念を発見しました。特別好きな人とは深く付き合いたいタイプなのですが、そう思う相手とは最初は仲良くやれて、その欲を発見すると途端に(友人は)心理的な距離を感じ、(同僚は)つっけんどんで、(恋愛やアプリなどなら)連絡が途絶える、など割と露骨な結果になりがちです。幸い、時々例外はありますが。
最近は(友人も同僚も)み〜んな、どうでもいい!という諦めムードに入ってきたからか、適度に上手くやれていますが、恋愛がどうにもダメです。
人を滅多に好きにならないのに、好きになる人は私から離れていく…
発端は家族に違いなく、愛してほしかった幼少期は、両親やきょうだいは私ではないものばかり見ていたと、孤独を感じていました。
幼少期から続くこのループを、どうにか断ち切って、近い誕生日をハッピー!に過ごしたいです。
アドバイスなどいただけたら、とても嬉しいです。
末筆ではございますが、暑い季節、皆様どうかご自愛くださいませ。
お読みくださりありがとうございました!(むんさん)
愛と理屈であなたの心を解きほぐす、ライフワーク研究家サトヒです!
すっかり空気が秋色を帯び、暑い季節も過ぎ去りつつありますが、むんさんはいかがお過ごしでしょうか。
もうお誕生日は過ぎてしまったでしょうか?(おめでとうございます!!)
実は先日、お弟子仲間との勉強会のようなものがありまして、ココロノマルシェに頂いたご相談について、みんなで一緒に考えるということをしたのですが
その時、こちらの相談文を採用させて頂いたのですね。
その日参加した8人のカウンセラーが、それぞれどのような方向性でカウンセリングをするかを述べ合ったのですが
みんな、愛に溢れた素敵な回答ばかりで、むんさんに全部お伝えしたいくらいでした。
カウンセリングって正解がない話なので、こうしてみんなの考え方をシェアすることが、カウンセラーとしての視野を広げてくれるのですね^^
と、弟子講座終了後も意外とみんなでまじめに勉強してるんだよ、っていう誰得アピールをしてみたところで(笑)
その時出た他のカウンセラーの話を(おそらく無意識に)パクリつつ(?)、私なりの見解をお伝えさせて頂ければと思います~!
観念を生み出す「過去の痛み」
恋愛って、相手との距離が近い分、どうしたって自分の観念に振り回されやすいものだと思うのですが
>昔から、誰かに””一番に””愛されたい、という願いが強いのですが、
>先日「私が好きになると、その人に振られる」という観念を発見しました。
そもそも「観念」って、本当に無意識・無自覚に発動するものなので、なかなか自分で気づくのは難しいのですよね。
だから、それに気づけているむんさんは、普段から内観的にご自身と向き合っていらっしゃるのだと思いますし、それってめっちゃすごいことだと思うのですね^^
で、やっぱり気になるのが
>””一番に””
という部分でして
以前、「誰かの特別になりたい気持ちは、逆に特別になれないと思っているからこそ生まれる」といった内容の回答を書いたことがあるのですが
私は、むんさんのおっしゃる””一番””に対しても同じような印象を受けたのでした。
つまり、””一番””にこだわってしまうのは
自分がずっと””一番””になりたかったのになれなかった経験から来る痛みにより、どうせ自分は””一番””になれないという絶望と怒り
があるからなのではないかと。
なので、むんさんのおっしゃる「私が好きになると、その人に振られる」という観念の更に奥底には
「私が好きになった人は、自分を一番に愛してくれないのではないか?」
という強い疑惑と不安があるのではないかと思うのです。
そして、この部分。
>特別好きな人とは深く付き合いたいタイプなのですが、そう思う相手とは最初は仲良くやれて、その欲を発見すると途端に(友人は)心理的な距離を感じ、(同僚は)つっけんどんで、(恋愛やアプリなどなら)連絡が途絶える、など割と露骨な結果になりがちです。
どうして最初は仲良くやれるのに、段々と疎遠になるのか?を私なりに考えてみたのですが
「観念」というのは、先ほども書いた通り無意識かつ無自覚に、自分をその「観念」を実現させる方向に動かす力があるものだと考えているのですが
おそらく仲良くなったばかりというのは、お互いに遠慮があったりして、割と理性的に相手と接していると思うのですが
それが段々と距離が近づくにつれて、自分が隠しているものが隠しきれなくなっていくと思うんですね。
それをお互いに認め合う、許し合うことで、関係性というのはより深まっていくものだと思うのですが
先ほども書いた通り、もしむんさんの中に「私が好きになった人は、自分を一番に愛してくれないのではないか?」という不安があるとすると
その不安が、どうしても相手との関係性の中で滲み出てくると思うのです。
なので、相手のちょっとした言動で不安になりやすかったり
逆に、相手が自分を”一番”にしてくれていないような言動に対して、不満を感じたりすることが増えていく可能性があります。
人間のコミュニケーションは非言語領域が93%を占めると言われていますが、私たちって意外と言葉以外の部分で気づいている部分が多いのですね。
だとすれば、むんさんの「””一番に””愛されたい」という欲求(ニーズ)は、なんとなく「期待感」として相手にも伝わって
それに応えきれないと感じた相手が罪悪感を感じて、申し訳なさからなんとなく距離を取っていくということもあるかもしれませんし
「どうせ私のことなんて、”一番”に愛してくれないよね」
という”過去の痛み”に対する絶望と怒りが、いわゆる「親密感の怖れ」となって、相手との距離を近づけなくさせているという可能性もあるかもしれません。
いずれにせよ、そういった自分の思いが相手との距離を縮める障壁となり、結果的に
「私が好きになると、その人に振られる」
という観念を実現して、更に強化し続けてしまっているのかもしれないなと思いました。
求めていたものが得られなかった痛みに寄り添う
で、ここでちょっと確認したいなと思ったのが
むんさんにとっての”一番”に愛されるって、一体どういうことなんだろう?
ということでした。
他の誰よりも自分を優先してくれること?
真っ先に、自分のことを思い浮かべてくれること?
それとも、自分ことだけを四六時中考え続けてくれること?
実は、その”一番”という感覚って、すごく漠然としていて、抽象的なんじゃないかと思ったのです。
しかも、その”一番”って証明しようがないのですよね。
どんなに相手が
「君のことを誰よりも大切に思っているよ」
と言っても、それが口先だけなのか、本気でそう思っているのか、よくわからなかったりするじゃないですか。
だから、その思いは行動で示してもらう必要があるのですが、その「相手にして欲しい行動」というのが、むんさんにとっての
「自分が一番に愛されていると感じられる愛され方」
なんだと思うのですね。
そして、それこそが、過去の自分が欲しかったけど得られなかったと感じている「愛情の形」なのだと思います。
>発端は家族に違いなく、愛してほしかった幼少期は、両親やきょうだいは私ではないものばかり見ていたと、孤独を感じていました。
と、むんさんも書いていらっしゃるので、今求めている「一番に愛されること」というのは、家族関係の中で求めていた「愛情の形」なのだと思います。
ご両親やご兄弟が見ていた、「私ではないもの」というのがなんなのかは詳しく書かれていないので、想像の域を出ませんが
例えば仕事や家事だったり、他のお友達との関係だったり、自分の趣味だったりと
他の家族が、自分以外の物事にばかり目が向いていて、自分の方を向いてくれないように感じたことが寂しかったのかもしれませんね。
だから、その時の痛みが「欲求(ニーズ)」となり、今の人間関係の中に投影されて、過去に得られなかったものを取り戻そうと自分を突き動かすのかもしれません。
しかし前述の通り、その痛みには「どうせ手に入らない絶望と怒り」がセットになっているため
本当は欲しいのだけれど、また手に入らないことで傷つくのが怖くて、素直に「欲しい」と言えない状況を生み出している可能性もありそうです。
なので、まずはその自分の痛みを、自分で抱きしめてあげましょう。
「愛されないと感じて、寂しかったよね」
「自分以外のものばかり大事にしているように見えたことが、とっても辛かったんだよね」
「本当は、誰よりも何よりも自分を一番に見て欲しかったんだよね」
そんな風に、自分の痛みに寄り添ってあげてください^^
「隠された愛」を探し出すという精神修行
ここで、ちょっと説教じみた話をさせて頂くと、人間関係の中での一番の「修行」って
自分が求める愛情の形以外の部分に、相手の愛情を見つけること
と私は思っていたりするのですね。
それはもちろん、過去の家族関係の中でもそうだし、今の人間関係でもそうなのですが、
「自分が”一番”に愛されていると感じられる愛され方」
以外にも、本当はむんさんへの愛を表現しているはずの行動ってたくさんあるはずなのに
自分が求める「愛され方」の形にこだわればこだわるほど、それ以外の愛が見つからなくなってしまうのですよね。
私たちは、自分の都合のいいように世界を切り抜いて見るようにできているので、自分の観念に合わない出来事は、無意識にスルーしてしまったりするので
実際には
>幸い、時々例外はありますが。
と書いていらっしゃる通り、
「私が好きになると、その人に振られる」
という自分の観念に当てはまらずに、ちゃんと自分が好きな人から大切に思われる、愛されるという経験もしているであろうにも関わらず
それは、たまたまの「例外」であるという判断によって、その経験の価値を低く見積もりすぎているのかもしれません。
なので、今一度「自分が愛されていたとしたら?」という視点で過去を振り返り、改めて「本当は愛されていた証」を受け取ってみるというのも、自分を癒すきっかけになるかもしれません^^
欲しいのに手に入らないものは、自分が与えにきたもの
そして最後に、私が好きなおシショーさまのブログがありまして。
このブログの通り、「自分が欲しいのに手に入らないものは、実は自分が与えにきたものである」という説があるのですね。
自分が相手の”一番”を強く求めるのは、それだけ自分が相手を絶対的”一番”にできるからなんじゃないでしょうか。
つまりむんさんは本来、相手を誰よりも大切にして、全力で愛せる人なのだと思います^^
そのくらいの情熱と愛情深さがあるのだと思います。
一言で言えば、「与え上手」の才能をお持ちだってことです。
だからこそ、同じ熱量で相手からも愛されることを求めてしまうわけですが
でも、それは他の人にとって当たり前にできることではないからこそ、自分が求めるように周りからもらうことができずに苦しんできたのかもしれません。
そのせいで、たくさん寂しい思いをしてきたかもしれません。
でも、人間誰しも色んなことに興味があって、日々色々な経験をするのが自然な生き方だと思うのですよね。
それは、実際にはむんさんにとっても同じだと思うのです。
相手から愛されるかどうかが不安になっている時って、どうしてもそれが最優先事項になって、他のことに目が向けられないものですが
自分で自分の気持ちに寄り添うことで、「愛されないのではないか?」という不安を癒すことができたら、もっと安心して自分の楽しみにも目を向けていけるはずなのですよね^^
そうして自分の興味関心が分散していくことで、相手だけに向けていたニーズが少しずつ軽くなり
お互いのバランスが取れていくことで、良い関係が築きやすくなるということもあると思います。
つまり、自分のライフワーク(自分が好きなこと、夢中になれるもの)にも目を向けてみるのはどうでしょう?というのが一つの提案です。
本来、情熱的で何かを夢中になって愛する力があるむんさんだからこそ、「自分が好きなこと」を見つけたら、それに向かって全力でエネルギーを発揮できるはずだと思うのです。
だからまずは、先ほども書いたように、自分の奥にある痛みに寄り添い、共感してあげること。
そうやって、自分を安心させてあげた後で、自分の純粋な楽しみの方にも目を向けてみること。
実際、夢中になれることが見つかってしまったら、恋人のことなんてそっちのけで、ライフワークに向かって爆走してしまう可能性も大アリなタイプだと、私はひそかに思っています。(笑)
そうやって、自分の情熱を前向きに発散できるものが見つかると、人間関係だけに偏ることなく、むんさんの「与え上手」という才能をもっと健やかに発散できるようになるのではないかな?と思っております。
そして結果的に、「好きな人から振られる」という観念をも乗り越えていけるとも思うのです。
むんさんが、自分の好きな人と好きなことの両方にバランスよく「情熱」というエネルギーを発散して、スッキリと充実した日々を送れることを心から祈っております!
サトヒより愛をこめて。
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