愛あるみなさま、こんにちは!
サトヒです。
昨日は夫が仕事だったので、ムスメと上野動物園に行ってきました。
冬とは思えない暖かさでびっくり。そして上野動物園の何かと良心的な価格設定にびっくり(都営だから?)。調子に乗って、長時間遊んだら、まんまと風邪を引きました・・・。(私だけ)
さて先日書いた、この記事・・・
アップして、シェアしたのとほぼ同時に目に入った、弟子仲間テツコハナヤマ氏のこちらの記事。
ぐわーーーー、目に沁みて痛すぎる!!!!
日本の全子どもたち代表の心の叫びかと思ったよね。(汗)
私が昨日テーマにした、「親の顔色を伺う子ども」の原因も、まさにこの「好きなもの選んでいいよ詐欺」による影響も大きいのであります。
それはある意味、過干渉であり、子どもの選択の自由を奪う行為なのです。
ハナヤマ氏の記事を読んで、私が思い出したのは年末のエピソード。
最近のムスメは、スカートを履きたがるのだけど、うちにはあいにくスカートがあまりなく。
なので、
「今度、一緒にお洋服買いに行こうよ」
と誘ってみるものの、出不精インドアなムスメは気乗りしない様子・・・。
「じゃぁ、なんでも好きなもの買っていいよ!」と追加射撃をしたところ(これが、最終的に子どもにとって悪魔的の囁きとなるわけだが)
「じゃぁ、行く」との回答を受け、意気揚々と家族で買い物に行きました。
着いたのは、某バースデイというしまむら系列の子ども洋品店。(西松屋と迷ったのだが、今回はこっち。)
「さぁ、ここから好きなものを選んで」
と言いつつ、売り場はサイズ展開がごちゃごちゃで、何がどこにあるのか探すのが大変。
なもんで、とりあえず、この辺かな?というところにムスメを連れて行き、そこから選ぶように促すと、娘が選んだのは・・・
① ボアボアしたスカッツ(スカートとスパッツが一体化したもの)
② 見たことないアイドルアニメらしきキャラクターの入ったスウェット
③ これまた見たことない戦隊ものの顔がアップでプリントされたTシャツ(半袖)
なぜ、こんなにたくさんある中からこれを厳選した・・・というセレクトばかり。orz
(しかし、この話を古い友人に話したところ、私もそういう微妙なものが好きだったイメージがあるから、遺伝的にしょうがないのでは?という光栄なコメントを頂いた。)
「いや、でもムスメが本気でこれが良いというなら、それを買ってあげるべきなのか?」
そんなしばしの葛藤はありつつも、夫と無言の検討をし、どうしても受容できなかった②と③は却下させて頂いた。
「えー、なんでもいいって言ったじゃん」
というムスメの言葉はまさに、ストⅡをリクエストしたにも関わらず、マリオを買い与えられた当時のハナヤマ氏の心境と全く同じであろう。
結果、ムスメの希望した①のスカッツ、母と父の合意したニットワンピースと花柄のスカートが買い与えられたのである。
これは、確実に東京湾岸警察署生活安全課特殊詐欺係ハナヤマ氏に逮捕される事案であります。
しかし、この出来事を通して、私は大いに反省していたのです。
「なんでも自分の好きなもの買っていいよ!」
「なんでも好きなことやっていいよ!」
と言うからには、相手の選択がどんなものであっても、絶対に受け入れるという覚悟がいるし、それが無い状態で、簡単に口にすべき言葉ではなかったのだ、と。
中途半端に、表面的かつ瞬間的な相手の喜びのために、心から真剣に思っているわけではない言葉を気軽に発することで、相手を期待させながらも
実際は相手の期待に反するような対応をすることは、むしろ相手をより深く傷つけ、絶望させ、失望させる可能性があるのだ、と。
約束とは、そもそもそういう種類のものです。その場しのぎの目的で、使うべきものではなかったのです。
心理学ワードに「ダブルバインド」という言葉がありますが、まさにそれです。日本語では、「二重拘束」と訳されますが、Wikipediaによると
ダブルバインド(英: Double bind)とは、ある人が、メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況におかれること。
つまり、”言ってることとやってることが違う”みたいなことかな、とざっくり解釈しています。
こちらのサイトによれば
二つの矛盾した命令をすることで、相手の精神にストレスがかかるコミュニケーションの状態です。モラルハラスメントやパワーハラスメントを招きやすく、注意が必要です。
とのことで、親子関係では非常に起こりやすい問題だそうです。
なぜ、そういう矛盾したメッセージになってしまうかと言えば、言動不一致・・・先ほども書いたとおり、”言ってることとやってることが違う”状態になってしまうのは、本音と建前が分離しているから、だと思うのです。
口先では「好きなもの選んでいいよ」と言っているけど、本音は「私の気に入るものを選んで欲しい」と思っている。
だけど、親側がその本音に対し無自覚であることが多いため、子どもの選択肢の否定という形でしかその本音を表現できず
結果、子ども側が親の顔色を伺い、その裏側にある気持ちを察して、先回りして親の期待に沿う行動を選ぶようになるのです。
それが、顔色を伺って、親の期待に応える”いい子症候群”の幕開けです。
そして、そんな状況から子どもが受けるメッセージは
「本当の気持ちは受け入れられない」
「ありのままの私は認められない」
「親の期待に応えなければ愛されない」
などです。そりゃ、自分の選択に自信は持てなくなるし、自分の存在価値を疑うようにもなりますわなぁ・・・。
無価値感と罪悪感のはざまで、自己否定祭りがわっしょいわっしょいと、昼夜を問わず連日開催されるようにもなるでしょう。
じゃぁ、子ども側が”脱!いい子”するのは、昨日書いた通りとして、親側に何ができるのかということを考えてみると・・・
① 自分と子どもは別人格だということを理解する
② 子どもに対する期待とコントロールを手放す
のが大事なんじゃないかな、と思っています。
ムスメを妊娠中、マタニティヨガに通っていたのですが、出産間近にヨガの先生に言われた言葉が
「妊娠出産子育ては、宇宙にはコントロールできないことがあるのだということを学ぶための大きな経験になるよ。」
この言葉はとても印象的で、今も時折思い出すのですが、ほんっとーに、妊娠も出産も子育ても、自分の力では何もコントロールできないことばかりですよね。
ただ、その中で子育てだけが、なんとなく自分でコントロールできそうな錯覚に陥りやすいものだと思うのです。
だけど、子どもは神様からの預かり物であり、理想を叶えるための手段でもないし、自分の所有物でもないし、ましてや自分自身でもない。
それを、親たちがたまに忘れてしまうことがあるのかもしれません。
今、保育園でも言われているのですが、国の教育方針も”自立性”や”主体性”というのを重要視しているそうです。
AIが台頭する時代でも、自分で考え、自分で行動できる人材を育てていくために。
でも、保育園からそういった保育方針を伝えられ、親達は戸惑うばかり。
その考え方に親の方が付いて行くのが大変なのです。私達親世代は、指示され、管理される教育に慣れてきたから。
そんなことまで任せて大丈夫なの?まだ子どもなのに、指示しなくていいの?管理しなくていいの?と思ってしまう。
だから、子どもの自主性を育てるには、大人の「信じて見守る」という態度がとても重要だと感じるのです。
子どもが自分で考え、自分で選んだ行動を信頼し、見守り、任せる覚悟。
それは、「好きなもの選んでいいよ」と言った後に、子どもが選んだものがどんなものであっても、それを受け入れ、与える覚悟をするのと同じだと思うのです。
子どもがその時、それを良いと思った。それが欲しいと思った。
その気持ちを尊重し、信頼し、約束を守ること。
(もちろん、命の危険に関わるようなことであれば、時には止める必要もあるけれど。)
もしそれができないのだとしたら、それは親側に何らかの心理的な問題があるということでもある。
その問題を、子どもをコントロールすることで解決しようとしちゃアカンのです。
自分の不安や不満や不自由さを、子どもを使って解消しようとしちゃアカンのです。
私も子ども時代には色々親に対して不満に思っていたことがあるのにも関わらず、子育ての世代間連鎖の呪いは強力で、無意識に色々やっちまうこともあるんだな、と今回の件で本当に反省。
今後ガチな毒親にならないためにも、親側が自己肯定感をしっかりと高め、まずは自分自身に自由と安心安全と幸せを与えることで、子どもにも同じように与えられる自分でありたいと、心を新たにしましたYO!!
色々な気付きを与えてくれた、テツコハナヤマ氏の記事に感謝!
ではまた。
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