誰かを死ぬほど好きになれるということ:愛せる自分の価値に気付けば恋はずっと楽になる

パートナーシップ

愛あるみなさま、こんにちは!

サトヒです。

昨日、相方おまみーぬとの共同企画「鬼畜生クリニック スペシャルなグループセッション」の一回目が、先日無事に終了しました~。

鬼畜生コンビ再始動記念!!ということで、かなりお得な設定(少人数&サービス価格)にしましたが、知らない人といきなり2対2ってのも、申し込む側としては結構勇気いるよな~と、後から思ったりもしました。(汗)

なので、お申し込みいただいた方、本当に本当にありがとうございました!!!

いやしかし、手前味噌ではありますが、やはり少人数ならではのじっくり感や濃密さというのがありますね。

心理的な距離感も近くなりやすいので、より深いお話が出やすいし、言葉の一つ一つがぐっと心の奥に入り込みやすい感じがしました。

そしてやはり、集まってくださる方には不思議と共通するテーマがあるものだし、自分のご相談だけではなく、他人の相談を聞いているだけで、視野が広がったり、自然と気付きに繋がったりするのが、グループセッションの良いところだなぁと改めて感じます。

で、昨日の共通テーマだったのが

「死ぬほど好き」

ということ。

なにそれ、すごいパワーワード!!!!!!

この言葉からわかる通り、ご相談は恋愛ネタだったのですが、しばし恋愛の舞台から遠ざかっている私としては、すごく胸がキュンとするお話ばかりでした。

やっぱり、恋っていいなぁ~と。(もちろん、キュンだけの甘い話ではないこともわかりつつね!)

恋愛は、生きるか死ぬかのサバイバルバトル!?

私も、結婚するまではめちゃくちゃ恋愛で暴走してきた人生だったので、お話を聞きながら当時の自分に想いを馳せてしまったのですが

相手の気持ちがわからない時って、一つ一つの行動が、生きるか死ぬかの真剣勝負になりがちなんですよね。

ちょっと声をかけるだけでも、生きるか死ぬか。

連絡先を聞くだけでも、生きるか死ぬか。

一言メッセージを送るだけでも、生きるか死ぬか。

何かに誘うのも、生きるか死ぬか。

告白するのもしないのも、生きるか死ぬか。

別れるか別れないかも、生きるか死ぬか。

自分の出方に、相手がどう出るかを予測するだけで、心は生きるか死ぬかの大騒動を繰り広げます。

それって、めちゃくちゃ相手に振り回されるわけなので、しんどいし、腹も立つし、苦しいんだけど

でも、それほどの「死ぬ思い」を抱えるまでに、相手と近づきたい、繋がりたいと思える相手がいるってことが、そもそも素晴らしいことだと思うんですよね^^

そもそも、どうしてそんなに恋愛に「生きるか死ぬか」のサバイバルバトル感が出てしまうかと言えば、その多くは自分が抱えている「無価値感」のせいだったりします。

▼無価値感は罪悪感と切っても切り離せないので、もしかしたら罪悪感のせいってこともあるやもしれぬ

どうしても「好き」の気持ちって、「好かれたい」欲求にもつながるので、それはある種の「弱み」にもなり得ます。

「好かれたい」欲求があると、相手に気に入られるために、無意識に相手の期待を演じようとしてしまうし、相手の一挙手一投足の原因を自分のせいだと考えがちです。

「私が○○しなかったから、彼から連絡がないのか…」

とか

「私が○○しちゃったから、彼が最近そっけないのか…」

とか

「私が○○だから、彼は私を好きになってくれないのか…」

とかね。

本来、相手の気持ちは自分の意志ではどうしようもない、コントロール不能の領域にあるものなのです。

だけど、私たちは心のどこかで、「自分の努力次第で相手の気持ちを変えられるのでは」という期待を抱きがちです。

そして、相手が自分を受け入れたり、認めたり、愛してくれることで、自分が潜在的に抱えている「無価値感」が癒されるような幻想も抱いてしまうものです。

だから、どうにか相手に気に入られる自分になることで、「愛される自分」を感じたいと思ってしまうものなのですね。

そもそも、自分が自分の愛される価値を感じられていないのですが、前述の「私が○○」の部分に入る言葉は、自分で自分を否定している部分とイコールなわけです

過去の私で言えば

「私がワガママだから」

「私がしつこいから」

「私が優しくないから」

などなど手を変え品を変え、色んな言葉で自分を否定して、そのせいで相手から好かれないと無意識に信じ込んでしまっていたのですが

「死ぬほどまでに誰かを好きになれる」こと自体が、素晴らしく尊い事なのではないかしら。

その、自分の情熱や、愛情深さや、思いやりに、もっと価値を見てもいいのではないかしら。

現在進行形の恋であれ、過去の終わった恋であれ、結果がどうあっても、そこに「誰かを思い、誰かを愛した」自分がいることに価値があるはずだよね。

と、今の私にはそう思えるのです。

私たちが、「私は○○」だからと否定している部分なんて、自分という存在のごく一部でしかありません。

何かのきっかけで傷ついて、そんな自分は封印しなければいけないと思い込んでしまった、小さな小さな自分の一部。

そして、そこにフォーカスしているのは、実は自分だけだったりします。

だけど、誰かを思う気持ち、愛する気持ちというのは、自分がどんな人だとしても、その思い自体に価値あるものだと思うんです。

どんなにワガママで、怒りっぽくて、寂しがり屋で、ウザくて、しつこいメンヘラ気味の超絶自己肯定低女(私)でも、「誰かを思う気持ち」「愛したい気持ち」「つながりを求める気持ち」には、それ自体に素晴らしい価値があったのだと、今なら思えます。

そこに自信が持てたら、相手が自分をどう思おうと、そこまで振り回されずに済んだんじゃないかな、と今なら思うんですね。

「誰かをこれほどまでに思える自分」という軸があれば、相手の言動に右往左往されすぎずに、もっと自信を持って、自分の愛を表現できたような気がするのです。

(そもそも、生きるか死ぬか騒いでいるのは、実際にはエゴと言われる自分の一部であって、自分の本質ではないのです。その自分の本質というのが、いわゆる「愛」なのですな。)

愛を止めないために

以前おシショーさまのおシショーさまである、神戸メンタルサービス代表の平さんが心理分析講座でおっしゃっていたのが

「愛してあげられないことほど、辛いことはない」

というお話。

愛されないことを怖れて、自分の愛を止めてしまう事が、実は一番罪悪感を感じるし、寂しいし、辛いことなんだと。

「怖れを乗り越えて、誰かを愛しましょう」って、言葉にするのは簡単なんだけど、それには自分を信じる気持ちが必要なんですよね。(そして、それがとても難しいわけだけど)

他に何もなかったとしても(あるものに気付けなかったり、素直に受け取れなかったとしても)、ただ「誰かを愛せる自分」の価値を信じてあげる。

そうすることで、相手の出方によって「生きるか死ぬか」のサバイバルゲームを繰り広げる必要がなくなるし、愛の出し惜しみをしなくて済むように思うですね。

だって、相手に愛されることよりも、自分が愛せることの方が、ずっとずっと価値があることだと気付けるから。

自分の価値の本質は、受動的に感じさせてもらうものなのではなく、能動的に自分の中に探すものなのかもしれません。

そもそも、そんなにも愛された相手は幸せ者に違いないし、そんなにも誰かを幸せにできた自分が、幸せにならない理由はありませんよね!

だから、「死ぬほど好き」な自分に自信を持っちゃいましょうね!というお話をしながら、過去の私にもそれを伝えてあげたかったな、と思ったのでした。

そのくらい、誰かを思うエネルギーは尊く、貴重で、素晴らしいものなのです^^

▼マミコカウンセラー視点の「死ぬほど好き」話はこちら(悶絶必至!!)

ではまた!

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