【幼い頃盗みをした自分への罪悪感について】
私は、絶対にこれこそが「悪」である、というものは、実はこの世に存在しないものだと、そう思っています。
行為自体はよくない行いだったとしても、それをすることでしか解放できないくらいの苦しい気持ちがあったということも、ちゃんと見てあげませんか?
赦しに必要なのは、自分自身に対する感情的理解だと思うのです。
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ココロノマルシェにご相談頂いた内容に回答しています!
こんにちは。初めて相談をさせて頂きます。アラサーです。
最近根本先生の罪悪感の本を読み、自分の罪悪感と向き合いました。
恋人を裏切ったことや、仕事の失敗などの罪悪感は、受け入れられそうな気がします。
だけど、どうしたらいいのか分からない罪悪感が残っています。
それは、小学校3、4年生の時に2〜3回人の物を盗んだことです。
先生にも親にも見つかり、母親は泣いていました。
なぜあんなことをしたのか自分なりに考えてみました。実家は裕福で家も大きく、クラスメートに「Rはお金持ちだよね〜」とよく言われていました。
でも実際は母親が「お金ナイナイ族」だった為、ウチにはお金が無いと言い聞かされており、オモチャや服は親族や友人のお古を着ていました。
服はお古でも可愛ければ嬉しかったのですが、みんな持っているオモチャをその時の持てないことが悲しかった記憶があります。
今思うと習い事にかなりお金をかけられていましたが、当時は習い事にそんなにお金がかかるとは知らず、「うちはお金が無いのに昔買った家が大きいからみんなにお金持ちだと思われてる…どうしよう…」と思っていました。
それで、友達が持っていた新作のゲームを盗んでしまいました。
今でもその罪悪感や恥ずかしさが2日に1度は襲ってきて、「うわぁぁぁぁ」と声に出してしまうほどです。
自分の親や、当時の友達に会うたびに「本当は泥棒のくせにと思われてるんじゃないか」と不安です。
母親がお金ナイナイ族だったことに加えて、当時クラスの担任と実の兄に胸や急所を触られることがよくあり(誰にも相談しませんでした)、また、母と同居の祖母(父の母)の関係が悪く、子供心に沢山ストレスを抱えてたのかな、とは思います。
しかし、本当に貧しくても家に問題があっても、盗みなんてしない子が大多数だし、それとこれとは別だ、単に私が最低な人間だっただけだ、とも思います。
盗みは現実的に不法行為で絶対的な悪だから、許されるなんてありえないことだとも思っています。
それでも許されたくて、時々募金をしています。
また、自分自身も大人になってから同僚に物を盗まれたことがあって、しかも返ってこなかったのですが、内心「これでイーブンだ。許された。」と少し嬉しく思った自分もいました。(それでも、私が盗んだ相手は違う人だから、やっぱり別問題だ…ダメだ…と思っています。)
盗み以外にも、小学生の時にイジメに加担したこともあります。
それも、許されたくて、中学生の時はイジメられてる子を守ったりしました。
でも、自分が別の子にイジメをした事実は消えません。
中学生から大人の心を持ったというか、分別がついて悪いことはしていません。
小学生の自分は自分さえ良ければ良いと思っていたのだと思います。
もはや20年前のことだし時効にしたいですが、このままだと死ぬまでこの罪悪感から逃れられない気がします。
どうしたらいいでしょうか。長文を読んで頂きありがとうございます。
(Rinaさん)
弟子29号、サトヒです!
師匠の罪悪感本をお読みになったのですね~
あれは、名著ですね!私の中で、自己肯定感本とツートップのベスト根本本です。
さてさて、Rinaさんは、ご自身の罪悪感と絶賛向き合い中ナウなのですね!
自分が罪だと思っていることを、ここに書くのも、とても勇気がいったことだと思います…
ご相談いただき、ありがとうございました^^
私自身、幼少期の頃に借りパクしたり、イジメに加担というか、友達の言いなりで別に嫌いでもなんでもない人を無視したりとか、ずるいことはいっぱいしてきましたよ~。(苦笑)
その当時のことを忘れていないので、やっぱりどこか感情的に手放せない思いがあるのかもしれませんし、時々思い出して胸がチクっとなるようなことはあります。
でも、私がそこまで(その件に関して)自分を責めるような気持ちがないのは、「しょうがないわ~」って思えているからでしょうね。
逆に、Rinaさんは、その当時の自分を「しょうがなかった」と思えないから苦しいんですよね。
「しょうがない」って思うって、それも許しのひとつですから。
師匠も本の中で書いていますが、愛が深い人ほど罪悪感を感じやすいものだそうですので、Rinaさんは愛情深く、自分を正しく律そうとする、真面目で誠実な人柄なのだろうなぁと思いました。
だからこそ、自分の過去の行動が許せず、自分を否定し続けてしまうから苦しいのだと思います。
お母さんは、「お金ナイナイ族」とのことですが、結構厳しい部分も多かったのではないですか?
小さい頃から、「いい子」を頑張ってきませんでしたか?
裕福で家が大きかったり、友達にも「お金持ちだよね」って言われているのに、お母さんは「お金ナイナイ族」だし、実際はお古ばかりで、自分が欲しいものは買ってもらえない状況って、子ども心にすごく矛盾を感じると思うんです。
なんとなく、友達に嘘をついているような罪悪感もあったかもしれません。
「本当はそんなんじゃないのに」って。
お母さんの言う「お金がない」という言葉を受けて、「うちにはお金がないんだから、欲しいものがあっても欲しいと言ってはいけない」と自分の気持ちを必死に我慢したのかもしれません。
そんな思いが苦しくて、一人では抱えきれなくなって、どうしようもなくて、友達の物を盗むという行動に出るしかなかったのかもしれません。
いわゆる、”アンダーグラウンド”というやつですね。
つまり、Rinaさんは自分の心のバランスを取るために、そうせざるを得なかったんです。
そう言われても、いきなり自分を許すのは難しいかもしれません。
だけどまずは、その当時のRinaさん自身の気持ちを、理解してあげませんか?というのが、ひとつの提案です。
>盗みは現実的に不法行為で絶対的な悪だから、許されるなんてありえないことだとも思っています。
とのことですが、賛否両論あるとは思いますが、私は、この世に絶対的な悪って存在しないと思っていて。
社会的に「悪」とされていることは、たくさんあります。
自分が「悪」と感じることは、たくさんあります。
でも、絶対にこれこそが「悪」である、というものは、実はこの世に存在しないものだと、そう思っています。
表面的な行動だけを取ってみれば、「それはどうよ」と思うことなんてたくさんありますが、その背景にはその人なりの正義であったり、状況、思想、考え、理由、主義主張などがあるからです。
つまり、どんな行動も、状況が変われば正義にもなるし、悪にもなるんですね。(よく例えられる話で、戦争時の殺人がありますね。殺人すら、正義にも悪にもなり得るのです。)
そのくらい、本質的な「悪」というのは曖昧なものだということです。
話が大げさになってしまいましたが、もちろん、お友達からすれば買ったばかりのゲームを盗まれたら、とても悲しいし、悔しい思いをしたでしょう。
そんな相手の気持ちを想像して、Rinaさんは申し訳ない思いで苦しくなってしまうのでしょうね。
もちろん、それに対して、「ごめんなさい」と謝ることは大切なことだと思います。
先生にも親にも見つかったということなので、その当時、きっとRinaさんはお友達に謝ったはずだと思うのですが、それがもし十分ではないと感じるならば、当時のお友達に対して「ごめんなさい」のお手紙を書いてみるのもいいかもしれません^^
「ごめんなさい」が言えなくて、自分を責め続けてしまう、ということもあるので。
ただ私は、相手の気持ちを考えるのと同じくらい、当時の自分の気持ちも考えてあげて欲しいな、と思うんですね。
行為自体はよくない行いだったとしても、それをすることでしか、Rinaさんには解放できないくらいの苦しい気持ちがあったんですよね。
そっちも、ちゃんと見てあげましょう、ということです。
自分自身に対しても、”感情的理解”をしてあげましょう、ということです。
行為の背景にあるはずの自分の気持ち…やり場のない痛みや苦しみ、本当にそうしたかったわけではなかったにも関わらず、そうせざるを得なかった事情、そうすることでしか保てなかったギリギリの精神状態だった自分自身を、今の自分が理解し、許し、救い出してあげるのです^^
>母親がお金ナイナイ族だったことに加えて、当時クラスの担任と実の兄に胸や急所を触られることがよくあり(誰にも相談しませんでした)、また、母と同居の祖母(父の母)の関係が悪く、子供心に沢山ストレスを抱えてたのかな、とは思います。
この部分。
これって、今、大人の自分が振り返って想像するのの何倍も、当時はストレスに感じてたと思うんですよね。
お母さんの「お金のナイナイ話」を聞いて、不安を感じて、自分の気持ちを我慢してきただろうし
性的な嫌がらせを受けて、すごく怖い思いをしたはずだし、誰にも相談できなくて、孤独を感じただろうし
嫁姑の軋轢を見て、何かできることはないかと試行錯誤したり、自分にはどうすることもできないのかと心を痛めてきたんじゃないかと思うんです。
子どもが背負うには、重すぎる話ばかりですよね。
それでも、どうにかお母さんに心配をかけまいと、支えようと、「いい子」に頑張ってきたんだと思うんです。
その大きなストレスを、子どもの自分ではどうすることもできなかったと思うんです。
だから、魔が差した。
盗んだことも、いじめに加担してしまったことも、誰かを傷つけたかったわけじゃない。
子どもの自分ではどうしようもなかった、苦しい出来事の一環だったんだと思うのです。
その子どもの自分の罪を、Rinaさんは大人になってもなお、ずっとずっと裁き続けているのですよ。
この世で一番苦しい罰は「自己否定」ですから、こんなにも自分自身に否定され、子どものRinaさんは、もう十分にその罪を償ったのではないですか?
その経験があるからこそ、募金をしたり、誰かに物を盗まれることを許せたり、いじめられる人を守ることもできましたよね。
自分の中の愛に、ちゃんと気付くことができた。
罪を償うには、それで十分ではないですか。
もし、これがキリスト教の話であれば、Rinaさんの目の前にイエスが現れて、きっとこう言うでしょうね。
「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。」
私は特定の宗教に属しているわけではないので、特別キリストを信じているわけではありませんが(聖書の話は好きですが)、その代わりに、誰の心の中にも神様はいると思っています。
なので、自分の心の中の神様に、こう言ってもらいましょう。
「あなたの罪は、もう赦されています。だから、これからはもっと自分を愛しなさい。」
人間だもの、多かれ少なかれ、誰でも過ちを犯すことはあります。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
そう言われて、石を投げつけられる人は誰もいなかったのですから。(なぜか、キリスト教ネタが多いですね)
過去の過ちに縛られることなく、その経験を糧に、まず自分自身を、周りの大切な人たちを、そしてこれから出会うたくさんの人たちに、愛を与えましょう。
本当は、もう赦されているから大丈夫です。それに気付くだけで良かったんです。
だから自分自身を赦し、その優しさで、他人の罪も赦してあげてくださいね^^
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