自分が感じることは、自分にとって絶対的な正解:本当の自分は「私なりに」感じることから見えてくるもの

自分軸と他人軸

愛あるみなさま、こんにちは!

サトヒです。

久しぶりに、個人的に大きな気づきがあったので、長々と書いてみます!

「楽しみなさい」という思し召し

先日、Twitterでも呟いたのですが、コラージュリーディングというのをやりまして。

いわゆるヴィジョンボード的な、自分の欲しいものややりたいことを集めるものではなくて

潜在意識で選んだ素材を好き勝手に貼り付けて、その意味を読み解くというものでした。

私はこれをとある講座のワークでやったのですが

読み解くには熟練した技術が必要なので、今の私には解説すらできないのですが(苦笑)

講座の主催者の方が、私のコラージュから読み解いたメッセージは

「もっと楽しんでいい」

とのことで。(かなりざっくり)

Twitterでも書いた通り、その言葉を聞いた時に思い浮かんだのは、遠い昔に退行催眠で過去世の自分から伝えられたメッセージ。

「人生は、ただ楽しむものよ」

スイス人のマリアさん(27歳)は、山間の大草原でくるくると楽しそうに踊りながら、笑顔で私にそう言ったのです。

そうしたら、先日弟子仲間のチサちゃんふみちゃんとお茶をしていた時にも

「サトヒさんは、もっと楽しんだ方がいいんじゃない?」

と、チサちゃんから唐突に言われました。(笑)

楽しめ、楽しめ、楽しめ…と、「楽しむ」がゲシュタルト崩壊しそうな勢いで、みんなから同じこと言われてるんですけど(笑)

これだけ何度も同じメッセージがやってくるということは、そろそろ真剣に受け取れってことだなと解釈したのですが

「楽しみなさい」

と言われた時に、とっさに頭に思い浮かぶのが

「楽しむって、どうやって?」

っていうセリフなんですよね。

え?楽しむって何?

それってどうやるんだっけ?

みたいな。

感覚を外側に表現しようとすると、感じていることに自信がなくなる問題

そもそも私の内側では、ちゃんと「楽しい」って感覚があるはずなのに

頭で考えたとたんに自信がなくなる

この感覚は一体なんなのだろう?と、しばらく考えあぐねていました。

私はそれなりに楽しいと思っているけれど、それが他人の言う「楽しむ」という感覚と一緒なのかはわからない。

だから、「楽しんでる?」と聞かれた時に、「うん!」と自信を持って言えないこの感じ。

よく考えてみたら、これって「好き」って感覚にも通じるものがある。

誰かに何かを「これ好き?」って聞かれた時に、諸手を挙げて「うん!」って言えない感じ。

自分の内側にある感覚を、他人に表現しようとした途端に自信がなくなる。

本当にそうなの?

絶対絶対そうだって、言い切れる?

頭で湧く、あれやこれやの考え。

これって、そもそも自分の感覚全てに通じてるような気もする。

好きも、嫌いも

良いも、悪いも

喜びも、幸せも、怒りも、悲しみも

それを感じてもいいの?って、いちいち思考でジャッジしてる。

私は自分が感じていることに、自信がないのだ。

自分が感じていることが「正しい」のか自信がなくて、それを表現して、万が一間違ってたら恥ずかしいと思ってる。

だから、やたらと回りくどく、遠回しに表現することで身を守っている(つもり)のである。

じゃあ、なぜそんなにも自信が持てないのかというと

自分の感覚に対して、客観的な正しさを求めているからなんじゃなかろうか。

私の感覚って、合ってる?

私が感じていることは、正しい?

って。

そして、その「合ってる」とか「正しい」っていうのは、他人から見てどうかってことなのだ。

それってつまり、他人の目を気にしてるってことだし、他人(の感覚)と比べてるってことでもあるのよね。

「ありのままの自分」と呼ばれるものの本質

こちらのブログにも書いた通りだけど

「他人が望むものを、自分も望まなければいけないような気がする」

という感覚と同じで

「他人と同じものを感じなきゃいけない」

と、どこかで思っている自分がいるのだと気付きました。

もちろん、みんなそれぞれ感じ方が違って当たり前というのは、頭ではわかってる(つもり)。

それなのに、私はどこかで正解を探していて、その正解は自分じゃない誰かの感覚なのです。

「自分がどう思おうと、周りが言ってることの方が正しいはずなんだから、それに合わせないと変だよ!自分の意見なんて関係ないよ!」

そんなことをずっと無意識に思っていたならば

そりゃ自分に自信なんて持てないよね~

と、改めて腑に落ちました。

以前、おシショーさまの個人コンサル(PCC)を受けた時

「今の自分の生活に点数つけるなら、何点?」

という質問をされて、その時なんとなく思いついたのが「60点」くらいだったんですよね。

特段大きな問題もなく、何の不自由もなく生きていて、なんて贅沢なこと言ってんだって感じですけど(苦笑)

それでも、浮かんだのが「60点」だったのですよね。

それを伝えての、シショーから出された課題が

「女性性を開く」

というもので。

私の問題の根源は、「不感症」にあったわけです。

自分にとっての幸せは確かに目の前にあるはずなのに、それを受け取れない、感じられない。

だから、シショーは私に”女性性を開く”という課題を出したのだと思います。

なぜなら、「女性性」という性質が、まさに「受け取る」と「感じる」領域を司るものだからです。

そこから、私の女性性研究が始まり、その本質を知れば知るほど

いかに、自分が自分の女性性的な性質を否定し、抑圧してきたかを理解しました。

本来は感じる力もあるし、感じていることもあるはずなのに、感じたくなくて考えてばかりいた。

なぜなら、感じすぎることが怖いから。

考えることで、感じることから逃げていたわけです。

自分の女性性を受け入れつつあってもなお、その癖は一朝一夕で直るわけでもなく

自分の感情や感覚、感性を思考的にジャッジしては、いちいちダメ出しし続けてきたのですね。

「ありのままの自分」という言葉がありますが

ありのままの自分の本質は、自分が素直に感じることにあると思うのです。

自分の本来の感性や感覚、感情。

それこそが、「ありのままの自分」そのものなんじゃないかと。

他の誰でもない「自分」というフィルターを通した時に、内側に自然と生まれるもの、湧き上がるもの。

自分以外には体験することも、感じることもできないもの。

それこそが、本当の自分、ありのままの自分と呼ばれるものなのではないかと、そう思うのです。

つまり、「女性性を開く」ことの本質は、本来の自分を取り戻すことにあったのだろうなと。

そしてそれは、ただ自分が素直に感じることを、そのまま感じるだけで良いということだったんですね。

▼私のブログで一番読まれている記事でも、まさに同じようなことをのたまっておりました…

「私なりに」という基準でいい

「本当の自分がわからない」って言葉をよく聞きます。

私も、ずっとその感覚を抱いてきました。

が、今回の気づきで、そりゃそうだよねって思いました。

だって、自分が素直に感じることを、他人のそれと比較して、いちいち正しいか、正しくないかをジャッジしてるんだもの。

本当の自分なんて、わかるわけないわー!!!

って。

自分が感じることに、正解も不正解もあるもんか。

自分が感じていることは、自分にとって絶対的なものなのだから。

自分が良いと思えば良いし、嫌だと思えば嫌でいい。

相対的な正解なんてあるはずがないのに。

そもそも、自分が感じたことは、思考や意志の力で変えられるものでもない。

つまり、どんなにコントロールしようとしても、コントロールできないものだということ。

他の人がどう感じていても、それと同じように感じる必要はないし、感じることもできないんですよね。

だったら

「私なりにどう感じているか」

を大切にしてあげる。

「私なりに」で全然いい。それで十分。

それが他の人と同じじゃなくても、他の人の基準を満たしてなくても

「私なりに」感じることを、私の世界での絶対的な正解にしていい。

それは、自分と他人の感覚の違いを認めることでもあるし

自他の境界線を引くことにもなるし

内側にいる本当の自分、ありのままの自分を守ってあげることなのだと思ったのです。

言葉にできなくても、確かにある感覚

そんなことを思いついて、改めて自分の今の生活や、自分自身について思いを馳せてみました。

他の人の基準は知らないけど

私は、私なりに自分の生活に満足しているし

私は、私なりに自分を好きになってるし

私は、私なりに自分の人生を幸せだと感じている

と、素直に思うのですよね。

「私なり」の基準で言えば、100点あげてもいいくらい。

頭を通して考えるのではなく、自分の肚に直接聞いてみたら

ちゃんと、幸せだし満たされてるって感じたのですよ。

なんだか、お腹がほわっと温かくなる感覚がしました。

でも、もし今誰かに

「幸せ?」

って聞かれたら

「え?多分、幸せ…だと思う」

みたいに答えるんだと思います。(苦笑)

どうしても、他者とのやり取りには思考を使ってしまうので、自分の感覚が遠くなってしまうのですよね。

でも、それはそれでいいんだと思いました。

私の内側に広がる感覚を、私がただ知っていればいい。

その感覚は、奥深くて、力強くて、自分の内側に果てしなく広がっているものだけれど

「言葉」は良くも悪くも、意味を限定する役割があるものだから

感じているものを「言葉」に当てはめようとした途端、「言葉の定義」という枠には収まりきらずに、何かがこぼれ落ちてしまう。

例えば、私が感じる「楽しさ」は、他の人から見たらめんどくさいこととか、大変なことも多分に含まれているような気もする。

でも、私が感じているこの感覚のすべてを、的確に、正しく、完璧に、誰かに伝えることはできなかったとしても

それは、私の中に確かに存在して、私の心を揺さぶっている。

ただそれだけが、自分にとっての真実なのです。

それが他の人の感じているものと同じかなんてどうでもいいし

そこに客観的な、相対的な正しさなんて必要ない。

私の世界では、私が感じたことだけが本当。

それを、「私なり」の基準でいいから、受け入れてみようと思いました。

私なりの幸せ

私なりの満足

私なりの喜び

私なりの悲しみ

私なりの怒り

全部、「私なり」の基準で良かったのです。

それこそが、「私は私で、あなたはあなた」の世界。

「私はこう感じる」という、自分軸の世界。

本当の自分はきっと、「私なりに」感じることの集大成で出来上がっているんだろうな、と思ったのでした。

そう考えると、私にとっての「楽しむ」というのは

自分というフィルターを通して感じる世界を、思う存分味わってみる

ってことなのかもしれないな。

それなら、ちょっとできるかも!?と感じられたので、良しとしましょう。

ではまた!

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