ほんとは、全然大丈夫じゃなかった:大丈夫じゃないフリをしてしまう理由とその対策

自己肯定感と自己受容

愛あるみなさま、こんにちは!

サトヒです。

先日、本屋さんをウロウロしてたら、こんな本を見つけました。

「大丈夫じゃないのに大丈夫なふりをした」

いや、これ、やばくないっすか?

私、タイトル見ただけで、涙腺が崩壊しそうになりましたもん。(笑)

本当は全然大丈夫じゃないのに大丈夫なふりをしてる時なんて、24時間365日、いつでもあるわ。

平置きされてて、今売れてる本だそうだから、きっと私のようにタイトルだけでウルウルしちゃう人、たくさんいるんじゃないかしら。

とはいえ、中身は読んでないので感想とかレビューは書けないのだけど

なぜ人が、”大丈夫じゃないのに大丈夫なフリをしちゃうのか”を、私なりに考察してみようと思います!

大丈夫じゃないことに気づくのが難しいのは、無意識に自分に過剰な期待をかけているせいかも

自分を振り返ってみて思うのが、そもそも自分が

「大丈夫じゃない」

ってことに気づけないってことが多々あるよな、ということでした。

ギリギリのギリギリまで、「大丈夫!まだいける!」って思い込んでて

キャパを超えて溢れ出した瞬間に、ようやく

「私、全然大丈夫じゃなかった!!」

と気づく。

それでは時既に遅しで、もはや心身共に崩壊しそうな段階。

ため込んだ感情が爆発して、周りに怒りをぶちまけてみたり。

なんで助けてくれないんだー!

とか

なんで自分ばっかりやらなあかんねん!!(エセ関西弁)

とかね。(苦笑)

これって、頑張り屋さんに多い傾向かもしれません。

まだまだやれる!

というか

まだまだやらなければ!

いや、むしろ

もっとやれる自分であらなければ!

という謎の使命感を発揮して、自分の実力以上にやろうとしすぎてしまうパターン。

自分に対して、過剰な期待を向けてしまっている状態とも言えるかもしれません。

▼私の「過剰な期待」体験談シリーズ

「大丈夫じゃない」って素直に言えないのは、できない自分をダメだと思っているから

じゃあ、どうして自分にそこまで過剰な期待を向けてしまうかというと

できない自分を認められない

からだったりするんですね。

もっとやれるはず、否、やらなければいけない

というのは、裏を返せば

できない自分ではダメだ

ということと同じことだったりします。

いわゆる「無価値感」とか「罪悪感」と呼ばれる感覚が、自分に過剰な期待を向けさせる。

おいおい、もっとやれるだろ?

このくらいで音を上げるような奴じゃないよなぁ?

お前の辞書に「不可能」なんて言葉はないんだよなぁ?

と、心の中の鬼軍曹が鞭をふるって、ピラミッドの石を運ばせ続けるわけです。

頑張り屋さん=頑張り教徒のみなさんは

「頑張ることこそ美徳!」

「頑張ることこそ正義!」

というシュプレヒコールに煽られて

この程度のことができない自分は、自分ワールドから抹殺せねばならない

と思い込んじゃっているようなものだと思うのですよね。

特に、自分が苦手だったり、好きじゃなかったりする事こそ

頑張ってやらなければ!

と思い込んでたりする。

それこそが、弱さの克服であり、存在価値の証明になりうる

そんな風に思っているからです。

つまるところ、無価値感とか罪悪感というのは

自分の弱さを受け入れられない

状態でもあるのですよね。

大丈夫なフリをしている時は、本当の自分と自分以外の誰かへの思いが葛藤している

じゃあ、逆に「大丈夫な状態」ってどういうこと?って考えてみると

無理をせずに、自分が楽にいられる状態

ってことなんだと思うんですよね。

つまり、大丈夫なフリをするということは

この程度のこと、無理なく、楽にこなせてます!

っていう風に装うってことになります。

嘘やん。(笑)

だって、それ好きじゃないし

向いてないし

やりたくないし。

でも、やらなきゃって思って、苦手なことを嫌々やってる状態。

それで、「大丈夫」なんて、嘘やん。(笑)

つまり、それは自分に嘘をついている状態とも言える。

「嘘」の対極にあるのは、「本当」。

人は、自分に嘘をつけばつくほど、本当の自分を見失っていくようにできているようです。

そりゃ、自分が本当はどうしたいかなんて、わからなくもなるよねっていう。

自分一人の限界を知るために必要な力

でも、じゃあ本当のことを言えばいいじゃんって。

大丈夫じゃないなら、大丈夫じゃないって言えばいいじゃんって。

そんなの、「それができたら何も悩んでねーよ!」っていうお怒り案件だと思うのですが。

そもそも、大丈夫じゃないのに大丈夫なフリをしちゃう背景には

きっと色んな思いがあると思うのです。

迷惑をかけたくないとか

誰かの助けになりたいとか

もっと役に立てる自分でありたいとか

そこにはポジティブな思いもたくさんあって

だからこそ、それが余計に自分を葛藤の渦に巻き込むわけです。

自分の弱さを認めることは、誰かに迷惑をかけること

誰かの手を煩わせること

誰かの労力を奪うこと

そんな風に感じることもあるのかもしれません。

だからずっと、たくさんのことを自分一人の力で解決できるように

もっと強くならなきゃ

もっと賢くならなきゃ

もっと勇敢にならなきゃ

もっと優しくならなきゃ

と思い続けて、色々なことと格闘してきたんですもんね。

つまるところ、その格闘こそが「頑張ってきた」ということなのかもしれません。

でも、しょうがない。

人は、互いに持ちつ持たれつで生きていくしかない。

炭治郎(正確には無一郎くんのお父さん)だって言ってます。

一人でできることなんてほんのこれっぽっちだよ だから人は力を合わせて頑張るんだ

【鬼滅の刃】竈門炭治郎の名言・名台詞・名シーンまとめ

自分一人で完璧に、全てのことをできるようにできてたら、そもそも神様がこんなに色んな人を創る意味がない。

それぞれの凸凹をお互いに補完するために、それぞれがそれぞれの凸凹を持って生まれてきているのです。

できないことを受け入れることは、「大丈夫」なフリをしないために、とっても大切。

「強さ」というのは、自分の「弱さ」を受け入れた先にあるものだと、私は思っています。

迷惑をかけても助けてくれるだろうって、周りの人を信頼することだったり

ダメな部分があってもどうにかできるって、自分自身を信頼することだったり

弱い自分でもうまくいくって、人生の流れを信頼することだったり

自分の弱さを受け入れるには、「信頼」の力がめちゃくちゃ必要なのです。

それって、「強さ」以外の何物でもなくないですか?

まぁ、単純に強い・弱いの二極で語ることが、そもそも難しい話だったりしますが。(笑)

まずは、自分に「大丈夫?」って聞いてあげよう

大丈夫じゃないのに大丈夫なフリをしてしまうのは

そこに、誰かへの思いやりがあったり

自分の存在への自信のなさがあったり

頑張り教徒ゆえの信仰心があるからだったりするわけですが

なかなか、自分が大丈夫かどうか?は気づきにくかったりするので

自分に「大丈夫?」っていう声掛けをするのが大切なんじゃないかと思います。

いわば、自分への思いやり。

自分への気遣い。

まずは時々でいいから、自分に意識を向けてあげる。

自分に対して、優しい言葉をかけてあげる。

すぐに、大丈夫じゃないほど大変なことをやめるのは難しいと思うけれど

大丈夫じゃないのに、大丈夫なフリをして頑張ってる自分を認めてあげることはできる。

その自分に気づくだけで、救われる気持ちもあると思うのです。

「こんなんじゃ、まだまだ足りない!」

と思い込んでいたからこそ、自分に鞭をふるい続けてきたけれど

「なんだ、もう十分よくやってたじゃん、私」

って気づいたら、自分を許せることもあるはず。

「大丈夫じゃない」って素直に言うことは難しいけれど、実は大丈夫じゃない自分に気づくことなら今すぐできる。

本当は、全然大丈夫じゃなかった。

それは弱いことでも、ダメなことでもなく、できない自分を受け入れる強さと信頼の表現。

いきなり自分をまるっと肯定できなくても、そんな自分の思いに気づいていくことで、少しずつ自分への厳しさが緩んでいくと思うのです。

まずは、大丈夫なフリをしてでも頑張ろうとしている自分の思いに拍手喝采を♡

今日は、今までなんとなく我慢してたこと、遠慮してやらなかったこと、買わずにいたもの、食べずにいたものを

自分にプレゼントしてみるのはいかがでしょうか^^

▼素直に「大丈夫」って思える生き方がしたい方はこちらへ

ではまた!

コメント

タイトルとURLをコピーしました