人を遠ざける無価値感:居心地の悪さと居場所の無さを生み出す心の仕組み【ココロノマルシェ】

ココロノマルシェ

【苦しくなければ、癒着ではないのでしょうか?】

ありのままの存在価値を感じられないと、人は「必要とされる」ことで自分の価値を確かめようとしたり、居場所を見つけようとしたりするものです。

誰かに必要とされようとされまいが、自分はそこにいても大丈夫なのだということを信じられるようになるために、まずは自分で自分の価値を認めてあげましょうというお話です。

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ココロノマルシェにご相談頂いた内容に回答しています!

苦しくなければ、癒着ではないのでしょうか?
こんにちは。 このような機会をありがとうございます。 何卒よろしくお願い申し上げます。 私の相談内容は、「苦しくなければ...

こんにちは。
このような機会をありがとうございます。
何卒よろしくお願い申し上げます。

私の相談内容は、「苦しくなければ、癒着ではないのでしょうか?」です。

わたしはずっと自分のことを癒着体質だと思ってきたのですが、
先日、お師匠である根本先生のブログで癒着の心理学を読んだら、??となりました。

わたしは離れたいのに離れられないということはないのです。
ただ、磁石に砂鉄がくっつかずにいられないように深い関係になった人にはぴたーっとくっつきます。
相手も同じ感じになります。

恋愛だけでなく、友人関係も同じです。
だいたい数年単位でその感じで続きます。
離れるタイミングは、相手に私以外に深い繋がりや強い興味の相手が出来ると、です。
そういう時は、もう憑き物が落ちたようにスッーと冷めます。

嫌いになるとかじゃなく、関心や愛着がなくなるという感じです。
で、それとなーく離れようとします。

察知して修復しようと相手がする場合があり、
私もこれは人として良くないのではと思い(友愛の場合など)
また慎重に関係を続けようと思うのですが、まったくもってダメなのです私が。
乾いた糊が二度とくっつかないように。

でも相手にはもうロマンス状態の新しい関係性があるので、まぁ大丈夫だしむしろ良いのではとくらいに思うのです。

では何が問題かというと、上記の通り特定の相手との関係性が終わると、
何となく気まずくて、共通の友人やグループからも私が離れることです。

問題ない場合もありますが、仕事絡みだったり、広範囲に渡ると結構不都合が出てくるので、関係性が終わった相手以外とは切らずに程よく居たいと思うのですがしばらくそういう程でやってると、とてもズルをしてるような罪悪感が募り、やっぱり去ることになります。

だから私は数年単位の人間関係しかありませんし、仕事もそうです。
もうアラフィフなので、こういう癖を見直して行きたいのですが、
最近もやってしまい只今ほぼ社会的引きこもりです。

ご助言頂けましたらとても嬉しくご連絡させていただきました。
最後までお読みくださり誠にありがとうございます。”

(ういきょうさん)

お師匠様に言わせれば・・・

「しゃーないやん、それが自分だし」

ということになりそうだなぁと、頂いたお話を読みながら思ったのですが(すみません)

私自身、「癒着」という言葉の定義が体感としてよくわかっていなかったので、弟子講座の時、師匠に聞いたことがあるんですね。

そしたら、癒着している状態で相手のことを考えると「うんざり」する、とおっしゃっていました。

この「うんざり」の感覚が、相手との癒着度を測る指標になるようです。

なので、ういきょうさんは別に相手のことを考えて「うんざり」するようなことはないのでしょうし、自分が離れたいと思って離れられるならば、それは、別に癒着ではないんじゃないかしら、と私は思うんですね。

>離れるタイミングは、相手に私以外に深い繋がりや強い興味の相手が出来ると、です。そういう時は、もう憑き物が落ちたようにスッーと冷めます。

とのことですので、むしろ人間関係に対して執着がないようにすら見えますが・・・

そもそも、人間関係って同じ形で永遠に続くものではないと思うんですね。

お互いの成長や変化によって、移り変わるものだと思っています。

その時々で、必要な出会いがあって、必要な別れがあります。

それが、人間の成長の一環でもあるのだと思うのです。

だから、ある一定の期間べったりとくっついていたのが、時が来て自然と離れることになるというのは、ある意味普通のことなのではないかな?と感じます。

お互い、生きるステージが変わったということなんでしょうね。

とはいえ、ういきょうさんが癒着体質かそうでないかは、実はあまり問題ではなくて、それよりも、相手と離れた後で、「その相手に付随していた人間関係まで、全て切らずにいられない」ということの方が問題になっているのかなぁと思いました。

>関係性が終わった相手以外とは切らずに程よく居たいと思うのですがしばらくそういう程でやってると、とてもズルをしてるような罪悪感が募り、やっぱり去ることになります。

とのことですが、「ズルをしているような罪悪感」って、どんな感覚なのでしょうか。

関係性が終わった相手の周辺の人間関係との付き合いを続けていることが、どうして「ズルイ」感じがしてしまうのかな?と、そこは掘り下げて聞いてみたいところですね~。

なんで気まずいのか?
どうして、ズルイと思うのか?
何に対して、罪悪感を感じるのか?

そこに、自分がなぜそういう人間関係のパターンを選んでいるのかの答えが潜んでいるかもしれません。

必要とされることで、居場所を感じられる

ここからは、私の勝手な想像で話をさせて頂きますが、もしかしたら、ういきょうさんは「必要とされる関係」を強く求めているのかもしれません。

相手に、ういきょうさん以上に強く求める相手が出来ると、すーっと潮が引くように、相手への気持ちが冷めてしまうということがあるわけですよね?

それって、ういきょうさんには「必要とされない自分には価値がない」という思いがあって、相手が自分を求めてくれている間だけは、相手に近づいても良いという許可を、無意識に出しているという可能性もあるのかな、なんて思いました。

それはつまり、「無価値感」と呼ばれる感情のせいかもしれませんが、自分が求められている確信が持てない相手だと、どのように距離をとっていいかわからなくなって逃げたくなるということもあるのかもしれませんし

「相手の人間関係は相手のもの」という意識がどこかにあって、自分が関係を絶った相手の周辺の人たちとだけ関係を続けていることが、別れた相手の所有物を勝手に使い続けているような感覚で、「ズルイ」と思ってしまうのかもしれません。

>だから私は数年単位の人間関係しかありませんし、仕事もそうです。

ということは、いつも所属するグループの誰かとべったりになって、そこの関係が終わると同時に、所属するグループそのものと距離を置くということを繰り返されているということでしょうか。

それは、仕事もプライベートも関係なく、特定の誰かとすごく近い関係になってしまうということですよね。

基本的に、人との距離感って、家族間の心理的距離の影響を多大に受けているものなので、ういきょうさんの家族との関係性についても、もう少し掘り下げて聞いてみたいところです。

無価値感が人を遠ざける

先ほども書いたとおり、ういきょうさんには「無価値感」があって、自分を必要としてくれる人を求めている部分があるのかもしれません。

つまり、求められることによってのみ、自分がここにいてよいのだということを感じられるということです。

それって逆に言えば、相手から求められることがないと、つまり相手に何かを与えている実感がないと、人に近づけないということでもあります。

そうじゃないと、自分自身に居場所を与えられないんですね。

ういきょうさんは、自分の存在そのものの価値を感じることができているでしょうか?

何をしなくても、何ができなくても、ただそこにいるだけで、存在そのものに意味があって、価値があると感じられるでしょうか?

「自分には何も価値がなくて、ここにいても何の意味のないような人間。だから、相手が自分を必要としていないのならば、ここに留まっていてはいけない。」

もし、そういう思いがどこかにあるのであれば、自分の価値を受け取るところから始めてみるのが、人との適切な距離感を保つための近道になるかもしれません。

無価値感って、結局は誤解による思い込みなのですが、そういう思いを感じざるを得ないような状況が過去にあったとしても、その気持ちを癒すことは、いつだってできるのです。

そのためには、自分を褒めてあげること、周りの人の愛を受け取ること、自分がやってきたことを承認してあげること。

お師匠様によれば、自分に対する承認や感謝の言葉は、自分に居場所を作ってくれる言葉なんだそうですよ^^

別れた相手の友達だろうがなんだろうが、自分がこれからも付き合っていきたいと思える相手なら、遠慮なくつながっていれば良いと思います。

そこに罪悪感を感じる必要も、自分にはそんな価値が無いと遠慮する必要も、全くありません。

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