「Life-size Counselor-Satohi.」

ライフワーク

「Life-size Counselor-Satohi.」 Written by Naoto Oosaki

北千住駅を出ると、列車は低くうなりを上げてスピードを速めていく。
荒川に架かる橋梁を渡ると、とたんに低くなるビルの並び。
ぼんやりと、私はそれを眺めていた。

七月終わりの、土曜日。
どんよりと分厚い雲が覆った空からは、夏の日差しは見えない。
駅のホームには夏休みと思わしき家族連れの姿もちらほら見えたが、
車両のなかはしんと静かな時間が流れていた。
もう十年ぶりに、なるだろうか。
この赤い車両の特急りょうもう号に乗って、実家に帰るのは。
車窓を流れる田園風景は、昔と変わらないように見えた。
違ったことといえば、以前のように太田駅まで迎えに来る、
という母の申し出を、断ったことか。
阿左美まで出て、そこからタクシー拾うから大丈夫。
渋滞するのにわざわざ出てくるのも、お互い疲れるでしょ。
そうは伝えたものの、心はざわついた。

なんで、いまさら。
何度も、そんな思いが浮かんでは、消えていった。
いつか帰らないといけないと思いながらも、
その「いつか」はいつも流れていった。
なんで、それをいまさら。
あの人に、言われたから。
いや、違うのだろう。
そういう言い訳が、欲しかったのだ。きっと。

あの人。
サトヒさん。
小柄でよく笑う、女性。
そして、不思議な魅力を持つ、カウンセラー。
柳のように飄々としながら、
まるで樹齢千年もの大木のような芯の太さも感じる。
それでいて、時おり「うふふ」と笑うしぐさは少女のようで、
私に青春の淡い記憶を想起させるのだ。

一方的に別れを告げられた失恋と、
仕事の失敗と周囲との軋轢と、疎遠になる友人と。
うまくいかないことが、重なり過ぎた時期だった。
休みの日は、ベッドから起き上がることも億劫だった。

どうして、こんなんにも苦しいんだろう。
どうして、みんなと同じようにできないのだろう。
なんで、私は…

気晴らしに出歩くこともできず、スマホの小さな画面だけが、
休日の私の世界のすべてだった。
そんなとき、私はネットの大海のなかでサトヒさんを見つけた。
そこから、サトヒさんのカウンセリングを申し込むまでに、
そんなに時間はかからなかった。

カウンセリングを申し込んでから、心は揺れた。
自分のことを話して、その苦しみを、傷みを、
はたして分かってくれるのだろうか。
この人なら、という希望と、どうせこの人も、という諦念と。
その狭間で揺れているうちに、当日になっていた。
週末の午後、自宅からオンラインでカウンセリングを受けた。
半年前の失恋の痛みからはじまり、とりとめもないことを、話した。
いや、話してしまった、という気持ちになった。
いままで、話を聞く側ばかりだった自分が、
どうしてこんなにも話しているのだろう。
セッションの途中で、何度もそんなことを思った。
サトヒさんは、いくつか質問をしながら、時おりうなずいてくれた。
時おり見せる笑みに、安心したような気がする。
そして、ずっと、私を見つめてくれていた。
サトヒさんの瞳の中に、私がいる。
どこか、そんな風に見ている自分もいて、驚いたりもした。

「理解されない苦しみは、孤独の苦しみに似ているよね」
サトヒさんは、呟くように、そう言った。
「世界でたった一人、どこにも居場所がないような。存在することすら許されないような。そんな絶望すら、感じるのかもしれない」
そう、サトヒさんは続けた。
そんなふうに、自分の苦しみを形容されたことは、なかった気がする。
そして、ずいぶんと深刻な話をしてしまったと思ったが、
なぜか最後には二人で笑いあっていた。
六十分のセッションが終わった後、ぼんやりとして、ただひたすらに眠くなった。
すぐにベッドに横になって目を閉じたが、眠りは訪れなかった。
ただ、まぶたの裏に映る光は、どこかサトヒさんの瞳の光と、似ていた気がした。

二回目のセッションでは、父と母の話をした。
自営業を営む、寡黙な父と。
それを支えながら、過干渉気味に私に接してきた母と。
多忙な両親のもとで、イイ子になろうとしたけれど、なれなかった自分と。
どこか、その自分を責めていたことと。
ずっと、自分の気持ちは分かってもらえない、と感じてきたことと。
分かってもらえないなら、せめて私は分かりたい、という想いと。
けれど、その想いすらも、叶わなかったことと。
社会人になり、「忙しさ」という無敵の大義名分を手に入れたことで、
実家から足が遠のいていったことと。
シフト制の不定休は、休みの日をはぐらかすのにはちょうどよかった。
けれど、いつもどこかに、「不出来な娘」という烙印を、
私は自分の胸のうちに抱えてきた。

そんな私の話を、サトヒさんは一緒になって笑って、怒って、悲しんでくれた。
そして、いくつかのたとえ話で、私の心の移ろいを、言葉にしてくれた。
私の絡まった心を、やさしく解きほぐしてくれた。
「そろそろ、実家に帰った方がいいんですかね」
セッションの最後にそう言った私に、
「そう思うなら、帰ってもいいんじゃないかな」
と、サトヒさんはやさしく言った。
どこか悪戯っぽい笑みを浮かべていたので、
悪態の一つもをつきたくなったけれど、じゃあ帰ってやるか、という気になった。

東武動物公園駅を過ぎると、生活導線に沿って走るような、
そんな風景が広がっていく。
そこに住み人たちの、何でもない暮らし。
けれども、何もない、暮らし。
以前に帰省していたとき、何度も見たその風景。
空虚な私の心とどこか似ているようで、
その風景が嫌いだったことを思い出した。
いまは、どうだろう。
眼前を流れていく住宅街の景色は、そんなに嫌とも感じなかった。
ふと。
くすんだ色の油のついた作業服を着た、父の背中が思い浮かんだ。
どこへ行くのだろう。
表情は、見えなかった。

________________

一点透視図、だったっけ。
高校の美術で習った図法の名を思い出すような、並んだビルの風景。
その間からは、抜けるような秋の青空が広がっている。
土曜日の午後の中央通りは、どこか活気と気怠さが入り混じる。
サトヒさんのグループセッションが、終わって。
すぐに地下鉄に乗るのは名残惜しくて、ぼんやりと歩いた。
髙島屋の特徴的な赤いテラスを見て、
銀座から日本橋まで歩いたことに気づいた。

ラグジュアリーホテルのアフタヌーンティーだなんて、
何を着て行こうかさんざん迷った。
朝、少し仕事があって…そんな言い訳を用意して、
できるだけ崩したオフィスカジュアルにしようと決めたのは、
前日の夜遅くだった。
一緒に参加された方は、それこそラフな格好から、
そのまま夜のディナーに行けそうなドレスアップした方もいて、
そうやって楽しんでいいんだ、と思った。
当のサトヒさんは、シンプルで落ち着いていながら、
それでいて品を感じさせるワンピースを纏っていた。
秋桜を思わせる暖かな色が、サトヒさんにとてもよく似合っていた。
グループセッションは、それまでのカウンセリングとは違って、
いろんな話を聞けた。
どんなテーマでも、サトヒさんの話す姿は楽しそうで、
それでいて知性を感じさせた。
ふと、足を止めると、ショーウインドウに自分の姿が映っていた。
見慣れたはずの自分の髪が、秋の風に吹かれて、揺れていた。

渡ろうとした横断歩道の信号が赤になり、足を止める。
浮かんでくるのは、今日の話題だった。
引き寄せの法則のこと。
自分を愛する、ということ。
プチプラの話。
サトヒさんが学んだレイキやアロマの話。
ライフワークと、お金の話。
信号が青になり、人が流れていく。
その流れに押されるようにして、私も歩き出す。
秋の風は、まだ夏の名残を含んでいるようだった。

「自分が我慢することで、場の平和を保とうとしてたわ、私。ずっと。いまもまだ時々するけど笑」
クロテッドクリームをたっぷりと塗ったスコーンを頬張りながら、
あっけらかんと話すその姿を見て、サトヒさんを少し身近に感じた。
サトヒさん自身も、長らく自分の価値を信じられず、
自己肯定感が低かったと言っていた。
いいことも、わるいことも。
サトヒさんは、取り繕うとしない。
そこに執着していない、と言った方が近いのだろか。
「なんかね、ほしいものを他人に与えることで、自分の苦しみを誤魔化してきたのかもしれないんだ」
参加者の方の一人が、うわ、私もそれ、めっちゃあります、と共感したことで、場が盛り上がった。
「結局のところ、自分の気持ちを理解できるのは、自分しかいない。ずいぶんと遠回りしたけれど、ようやくそれに気づいてからかな、内面の探究をはじめたのは」
遠回りというのが、どれくらいのものなのか、
サトヒさんの表情からは、読み取れなかった。
「けれどね、償うようにしてきたことは、実は私に与えられた恩恵だった。分かりたいと思うこと、分かろうとすること、それは私が世界のためにできる、価値のあることだった」
ティーカップを口にしながら、サトヒさんは視線をテーブルに落とした。
「自分を分かってくれる人がいる、と感じたときの安心感、心強さを、届けたいんだよね」
そう原点を話すサトヒさんは、ほのかに輝いて見えた。
ファーストフラッシュのダージリンの鮮烈な香りと一緒に、
その輝きは思い出された。

帰省してみたんです。
聞かれたわけではなかったけれど、終わりぎわに、そう報告してみた。
「あら、そうなの。教えてくれて、ありがとう」
サトヒさんは、何でもないことのように笑っていた。
何よ、こっちはめっちゃ葛藤したんだから!と思ったけれど、
その笑顔が、私の背中を押してくれたのだと悟った。

そう、何でもないことだった。
十年ぶり近くになる、実家。
両親は怒るでもなく、かといって、感動的な対面であったわけでもなく。
母といえば、いちいち細かいことを気にしていたし、
余計な一言を付け加えてくるし、
半径数メートルのできごとへの文句ばかりだし、
それらは昔と何も変わっていなかった。
父も父で、相変わらず黙して、何も語らなかった。
記憶の中と同じように、茫洋とテレビの画面を眺めていた。
ただ、父も、母も。
歳を重ねたな、とは思った。

胸につかえを覚えて、私は足を止める。
深呼吸とともに見上げた空には、うろこ雲が規則正しく並んでいた。
風はまだ生ぬるいけれど、秋がそこにいるような気がした。

________________

「あんまり難しく考えず、あなたの心に感じている愛を、ありのままにお母さんに伝えてみたら?」

そう言って、サトヒさんは私を見据える。
そのまっすぐさを受け止められず、私は視線を横に逸らす。
窓の外には、冬晴れの空が広がっていた。
そっち、スカイツリーが見えるんだよ、今日は見えるかな、
とサトヒさんも窓の外を覗く。

「愛なんて、感じてないです」

口をついて出てくるのは、いつもこんな言葉だ。
だって、そうなんだから、仕方がない。
いままでもそうだったし、いまもそうだ。
目の奥がちりちりして、喉に渇きを覚えた。

「申し訳なさを感じるのは、あなたの愛ゆえに。
 お母さんに、笑顔でいて欲しかったんですよね」

私の視線は、見えないスカイツリーの方を向いたままだった。
サトヒさんがこちらを見つめているのを、視線の奥で感じた。
視線を、部屋の中に戻した。
折りたたまれた椅子のオレンジ色が、どこか暖かく感じた。

「そんなこと、ない」

素直になれていたら、いままでどれほどよかったか。
いくつもの場面が、思い浮かぶ。
この前だって、そうだった。
別れ話を切り出されてもなお、もの分かりのいい女を演じていた気がする。
別離がもたらす孤独の痛みよりも、
素直になれず自分自身を騙したことの方がよっぽど痛くて、
それはいつまでも私の心を蝕んだ。

そうなんです、笑顔でいてほしかった。
その一言が言えたら、誇れる自分でいられたのだろうか。

「ずっと、その気持ちを、理解してほしかったのかな。
 ううん、それよりも…分かりたかったのかな。
 お母さんのことを、他人のことを」

分かってもらえないなら、せめて、分かりたい。
ずっと、それを願っていた。
自分の願いが叶わないなら、せめて、あの人の願いを叶えてあげてくださいって。
けれど、どちらの願いも、届かなった。

じぶんのことをすててまで、かなえてくださいって、おねがいしたのに。
どうせ、わたしのねがいなんて、どうでもいいんだ。
わたしなんて、いらないコなんだよ。

うるさい。
いま、サトヒさんとはなしてるんだから、だまってて。

いつもそう。
そうやって、わたしのことを、おきざりにする。
けっきょく、だれかさんといっしょ。

うるさい。
だって、そうするしか、なかったじゃないの。
ほかにどうしろっていうの?
ほかに、どうできたっていうの?

「私も、そう。
 どれだけ届かなくても、心から理解してくる他人を、切望し続けている。
 それはもっと、自分を理解し、寄り添いなさい、ってことかもしれないね」

ふふ、と悪戯っぽい笑みをサトヒさんは見せてくれる。
あたまの中のごちゃごちゃの嵐が、不意に止んだ。

「分かってもらえないのに、分かろうとしたこと。
 イイ子になろうとしたのに、なれない自分を、ずっと責めてきたこと。
 そんな、あなた自身のあり方を、誇っていいと思う」

窓の外で吹く冬の風を、なぜか感じた気がした。

「使命とか天命とか、大きなものをひとは探してしまうけれど。
 自分自身として生きることだけが、使命であり天命なんだと思う。

 あなたが歩んできた道を、あなたが否定しなくてもいい」

視線が、ぶつかった。

「私が、歩いてきた道」

東武特急の車内で浮かんだ、作業着の父の姿が脳裏をよぎった。
それでも、口をついて出てくるのは、母のことだった。

「ずっと、母の望むようになんて、なれなかった。
 私が、娘でよかったなんて、思えない。
 私が、私でよかったなんて、嘘だ」

しん、と静かな部屋に自分の声が響いた。
サトヒさんは、微かな笑みを絶やしていない。
いつも、そうだ。
けれどそれは、私にとっての「いつも」ではなかった。
堪えきれずに感情をぶつけると、その十倍、百倍の感情が返ってくる。
それが、私にとっての「いつも」だったはずだ。
けれど、その「いつも」はここにはない。

「そう思うあなたも、誇っていい。
 そう思うことで、守りたかったものが、あるんでしょうから」

視線を、合わせなかった。
サトヒさんの後ろから覗く空の、雲の輪郭がさっきとまったく違う。
すごい速さで、雲は流れていくようだった。
サトヒさんの言葉を反芻するよりも、雲の形を考える私は、
ワルイ子なのだろうか。

「どんなに不安や不信の暗い雲が垂れこめようとも、決して覆い隠せない、力強い光。あなたのその光を、ずっと見ている」

冬晴れの空は、どこか凛として、それでいて透き通っていた。
何かを言おうとしたが、何を言おうとしたか忘れた。
だから、窓から覗く空を、ずっと見ていた。

「あ、ほら、見て見て。スカイツリー、やっぱり見えるよ」

無邪気にスタスタと席を立つサトヒさんの後ろ姿を、眺めていた。
座ったままだと、スカイツリーは見えなかった。

今日はよく晴れて、よかったねぇ。
背中越しにそう言うサトヒさんに、私は無言で頷いた。
目の奥の熱は、どこかに引いていた。
ただ、この胸の鼓動だけが、部屋の中に響いているような気がして、
なんだか恥ずかしかった。

この人に出会えてよかった。
それだけは、素直にそう思えた。
だとしたら、この先もう少し誇れる自分でいられるだろうか。

「今日、ここに来てくださって、ありがとう」

不意に、サトヒさんは文脈を外れた言葉を口にした。
まっすぐにサトヒさんはこちらを見る。
その無邪気さに、もう少しだけ素直になれる気がした。

この人に出会えてよかった。
もしかしたら。
サトヒさんも、そう思ってくれているのかもしれない。

少し首を傾げて、サトヒさんは微笑んでいる。

この人に出会えて、ほんとうによかった。

もしかしたら、父も。
あるいは、母も。

窓から覗く空の雲は、また形を変えていた。
スカイツリーを頼りに、故郷の方角を確かめている私がいた。

くぐもった色をした、故郷の空。
記憶の中のその色が、無性に懐かしく思えた。

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