【いい人病から抜け出せません】
私達は生まれてから今まで、知らず知らずの間に、たくさんの価値観に”洗脳”されているといっても過言ではありません。
そして、その価値観によって、無意識に自分自身を縛り付けていたりもするのです。
”「いい人」でいることで愛される”という戦略がうまく働いている間は、そのままでも良かったかもしれません。
でも、そのルールが自分にとって居心地の悪いものになったのなら、そろそろそのステージを卒業するタイミングが来た、ということなんじゃないかと思うのです。
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ココロノマルシェにご相談頂いた内容に回答しています!
こんばんは。ご回答いただけたら幸いです。
わたしは自覚はなかったのですが、自己肯定感が低いとこのところふとした瞬間に指摘されることが続き、なんとなく気になって本屋で心理学の棚をのぞいたらたくさん自己肯定感がタイトルについた本がありました。
そこで根本先生の本いくつかと、他の方の本もいくつか買って時間のある時に読んでいます。そして根本先生のブログからこちらを知りました。
他の方へのカウンセラーさんの方の回答を読ませていただいて、自己肯定感について私なりに少しずつ学ばせていただいています。
そして気づいたのはわたしは今まで、いい人であることが自分らしさだと思ってたことです。
また、母にそう望まれてたのかな…?ということでした。
というのも、昔からわたしがいい人病を発揮して疲れきっている時に母がわたしに声をかける言葉は「人のために頑張るところがあなたのいいところ」だったからです。そういった親の希望や期待だけでなく、一般的に流布してる価値観は多分に自己犠牲に寄るような「いい人」が善であり、美しく尊いものとされてるのかもしれなくて、またそれを私は子供の時から積極的に自分から選択してきたようだと、このところこちらのサイトや自己肯定感本で学ばせてもらってから感じるようになりました。
子供の頃読んでた少女小説や漫画、ドラマに映画、その中には、精神的な自立と葛藤をテーマにした「いい人価値観」とは違うものも沢山あると思うのですが、私が好んで読み、そして必ず自己憐憫のような涙を流すのは、必ず「いい子」が「周りのために頑張って」「愛される」ものでした。
そしてそれに気づいて何ヶ月も立っても私は相変わらず人と接してる時は「いい人」です。
でも以前と違うことは、わたしに「いい人」をより強く望む人に強烈な怒りを感じるようになったことです。
二度と関わりたくないとすら思うようになり、人間関係がギクシャクしています。
でも、変わっていきたいです。
変わり方がうまくいかず、実質硬直状態です。
人と接しててもどう変えていいかわからず、コミュニーケーションの手法を無くしたような感覚があります。言葉や手足を失ったような感覚です。
重度のいい人病の人間はまず何からしたらいいのでしょうか…?
ps:本やこちらのご回答を参考にさせていただいて、とりあえずやってることは、乗り気じゃない誘いを勇気を持って出来るだけ断わったりLINEの返信をあまりに丁寧にやり過ぎないことなどです(罪悪感がどうしても伴いますが…)
(スクルージさん)
全国の「イイ子ちゃん」症候群の皆様の解放を心から望む、ライフワーク研究家/カウンセラー、サトヒです。
最近、「イイ子」が研究テーマなので、意気揚々と回答させて頂きます!
イイ子の成り立ちについて分析したこちらの記事でも書いたのですが
イイ子、いい人になりやすいタイプというのは、本来内向的だったり、繊細だったり、慎重な気質を持つ子が多いそうです。
つまり、豊かな感受性を生まれ持ったタイプだからこそ、親や周りの人の顔色を伺って、相手の期待を汲み取り、その通り行動することができる、とも言えると思うんですね。
だから、私は「いい人になれる」というのは、一種の才能でもあると思うんです。
だって、人のために頑張れるって、本来素晴らしいことではないですか^^
利他的な行動が自然と取れるというのは、人として素晴らしいあり方ですし。
ただ、ここでスクルージさんの言う「いい人」の定義が、「人のために頑張れる人」なのだとしたら、その素晴らしい才能をうまく制御できないまま、自己犠牲の方向に発揮し過ぎて、自分自身をすり減らしてしまうことが問題なんじゃないかな、と。
そして、そうせざるを得ない理由というのが、スクルージさんにとって”いい人になること”が、唯一愛される手段だと信じ込んでしまっているため、だと思うのです。
スクルージさんは、それしか愛される術がないと思い込んでませんか?
いい人なければ、人から受け入れられないのでは?と怖れを感じていませんか?
それこそが自己肯定感の低さであり、「いい人」を手放せない理由なんじゃないかな、と、私は思うのです。
>そして気づいたのはわたしは今まで、いい人であることが自分らしさだと思ってたことです。
いい人であることは、もちろんスクルージさんにとっての「自分らしさ」の一つではあるのだと思います。だけど、スクルージさんの自分らしさは「いい人であること」だけではないですよね?
”いい人”は自分らしさの一つの要素であって、全てではない。
今回、スクルージさんがココロノマルシェに相談をしようと思ったのは、自分の”いい人病”に気付いたことで、怒りが出てきたことがきっかけだったと思うのですが
それは言わば、これまで抑えていたものが隠し切れなくなった、ということでもあるんじゃないかと思うんですよね。
今まで、「いい人」の影に隠れていた、本当の自分らしさがようやく産声を上げた、ということでもあるのかもしれません。
「私はここにいるよ!」と、スクルージさんらしさの欠片が、その存在感を示したくて、”怒り”という強い感情を使って、自己表現している。
私には、そんな風に見えるのですよ。
”怒り”の感情って嫌なものですけど、そのおかげで、隠れていた自分自身の一面に気付けたのだとしたら、それは素晴らしい気付きのきっかけでもあるのではないでしょうか?
>そういった親の希望や期待だけでなく、一般的に流布してる価値観は多分に自己犠牲に寄るような「いい人」が善であり、美しく尊いものとされてるのかもしれなくて
そうですよね~、一般的に「いい人」は善であり、美しく尊いものとされてるかもしれませんね。
特に日本の道徳教育は、儒教の影響からか、自己犠牲的な価値観を良しとしていますしね。
私達は生まれてから今まで、知らず知らずの間に、たくさんの価値観に”洗脳”されているといっても過言ではありません。
誰だって、親や社会的な常識や価値観に多かれ少なかれ影響を受けているものです。(同じように、自分の親もまた、その親の影響を受け継いでいるわけです。)
そして、その価値観によって、無意識に自分自身を縛り付けていたりもするのです。
「いい人」でいることで愛される、という戦略がうまく働いている間は、そのままでも良かったかもしれません。
でも、そのルールが自分にとって居心地の悪いものになったのなら、そろそろそのステージを卒業するタイミングが来た、ということなんじゃないかと思うのです。
では、どうやって”いい人病”から足を洗うかというと・・・
② 自分の内面と向き合う時間を作る
③ 自分が楽な選択を積み重ねる
というステップで進むのが良いのではないかな?と思います。
① 怒りを消化する
>でも以前と違うことは、わたしに「いい人」をより強く望む人に強烈な怒りを感じるようになったことです。二度と関わりたくないとすら思うようになり、人間関係がギクシャクしています。
先ほども書いたとおり、”怒り”は自分を解放するための原動力でもあるわけです。
(逆に言えば、それほどまでに強烈なエネルギーがなければ解放できないほどの強い力で、自分自身を抑圧し続けてきたということでもあるのですが。)
だからといって、それをそのまま相手にぶつけてしまえば、元も子もありません。自爆テロで、粉々です。死なばもろとも、です。
それは、本質的に平和主義なスクルージさんの望むところではないはずです。
なので、まずは激しい怒りを手放すことを最優先しましょう。
どんな感情も、手放すには感じ切ることが大切。強い怒りは、エネルギーとして発散してしまうのがオススメです。
ここで感じる怒りは、これまでずっと抑圧してきた自分自身の心の叫びなのです。
「いい人」じゃなければ、愛してくれないんでしょう?
「いい人」じゃない私は、許されないんでしょう?
周りの人のために頑張れない私は、悪い子なんでしょう?
私のありのままは、いつだって認められない。
頑張らない私は、いつだって愛されない。
都合良く私を使って、私はこんなにも周りに尽くしてボロボロになっているのに、誰も助けてくれないじゃない!!
そんな思いが溢れ出るかもしれません。
その怒りは、スクルージさんがこれまでの人生でずっとずっと頑張ってきた証なのです。しっかりと受け止めてあげましょうね!!
② 自分の内面と向き合う時間を作る
怒りが落ち着いたら、自分の感情と向き合ってみましょう。
自分自身と対話をするために、お恨み帳としてノートに書き出してみるのも良いですね^^
私は、どうして「いい人」でいなければいけないのか?
「いい人」であることは、どんなメリットがあるんだろう?
「いい人」でなくなったら、私はどうなってしまうんだろう?
「いい人」であることで、私は誰を助けたかったんだろう?
そんな風に自問しながら、自分の心の内を探ってみてください。
スクルージさんにとって「いい人」であることは、自分が愛されるための手段でもあったけれど、それと同時に、誰かを愛するための手段でもあったと思うのです。
元来、愛したい気持ちを強く持ち合わせているからこそ、「いい人」であることを頑張りすぎて、心のバランスを崩してしまうリスクがあるんですよね。
本当は、そんなに頑張り過ぎなくても愛されていいし、愛される価値があるんです。
それが、自分自身で認められないから、つい頑張りすぎて人に気を遣ってしまう。尽くして過ぎてしまう。
もしそれが、「親を幸せにしたい」という思いをベースとしているのだとしたら、今一度、自分の存在そのものがご両親を幸せにしていたという事実を思い出してください。
ただ、スクルージさんがそこにいるだけで、周りにたくさんのものを与えられているんですよ。
その事実に、自分自身で気付けるかどうか、それがとても大切なことなのです。
③ 自分が楽な選択を積み重ねる
今までの人生、ずっと「いい人」が当たり前で来たのだとしたら、いきなりそれと違う行動をしようとすれば、必ず違和感が生まれます。
それは罪悪感だったり、不安だったり、何かしら居心地の悪い感覚として、自分の中で感じられるでしょう。
でも、それは人間が変化を嫌う生き物だからこその、自然な反応。
今までと違う自分になるには、この違和感とうまく付き合うしかありません。
ただ、その違和感も、いつかは必ず慣れます。
今までとは違う言動をする自分が、いつかは自分のデフォルトになって、当たり前になっていきます。
なので、それまでの辛抱だと思って、自分に優しい言葉をかけながら、慣れるのを待ってみてください^^
>乗り気じゃない誘いを勇気を持って出来るだけ断わったりLINEの返信をあまりに丁寧にやり過ぎないことなどです(罪悪感がどうしても伴いますが…)
そうそう、その調子!!少しずつそういった行動を積み重ねてみてください!
相手に気を遣いすぎて疲弊するよりも、少しでも自分が楽な方を選ぶ。
今まで「いい人」をやってきた人には、すごく自分勝手なような、ワガママなような、ひどいことをしているような感覚がするかもしれません。
だけど、いい人がいい人をやめるには、一度付いた折り目を元に戻す時のように、思い切って逆に動く必要があるのです。
つまり、自分では、すごいひどいことをしていると感じるくらいでちょうど良いのです。
自分の本音を大切にできた自分を、自分の気持ちを優先し、自分を愛することができた自分を、たくさん褒めてあげてくださいね^^
先ほど紹介した記事にも書きましたが、生粋のイイ子がイイ子をやめるには、つまり自分軸を取り戻すには、人の心を捨てて鬼畜生になるくらいの勢いがいるものです。
愛の深さの分、罪悪感を感じやすいものだからです。
なので、鬼畜生道の教えをお題目のように唱えながら、断腸の思いで自分の本音を優先する練習をしてみてください!
「できないことをできなくて良い」
「無理なものは無理で良い」
「しなくないことはしない」
「やりたいことだけをする」
「敢えて見捨てる」
「わがままに振舞う」
「ダメなものはダメだと言う」
それはつまり、自分がダメだと思っている自分を受け入れるということであり、自己肯定…つまり、自分を大切にするということでもあるのです。
誰かの期待に応えられない自分を、自分自身で許す、ということでもあるのです。
本当は、自分に「いい人」を強制しているのは、他の誰でもない自分自身です。
「いい人」じゃない自分を否定し続け、誰かの期待に応えることを自分に課しているんですね。
誰かの期待に応えたいという思いは、元々は誰かを愛する気持ちから生まれたものでした。
しかし、大切な人を喜ばせたい、笑顔にしたい、そんな気持ちが強くなると共に、”期待に応えられる自分”=いい人、”期待に応えられない自分”=悪い人であると、自分自身を分離して捉えるようになってしまいました。
そして、”いい人”だから愛される…逆に言えば、「期待に応えなければ愛されない」という呪いをかけてしまったのです。
自分でかけた呪いは、自分にしか解けません。逆に言えば、自分だからこそ解ける呪いです。
自分が否定した自分自身を受け入れることさえできれば、その呪いは幻のように消えてしまう単純な思い違いだからです^^
長年の習慣は、一朝一夕で変わるものではありませんが、小さな行動の積み重ねは、大きな変化に繋がるはずですよ^^
スクルージさんが、ありのままの自分らしさを受け入れ、自然体で愛し愛されることを、心から祈っています!
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