愛あるみなさま、こんにちは!
サトヒです。
前回のブログに書いた通り、外出欲に燃えておりまして、週に1度の託児時間は人と会うことが多く、バタバタな今日この頃でした。
ありがたいことに、ぼちぼちセッションのご予約も頂いたりなんかして、家のことやらやりたいことやら、忙しくも充実した毎日を過ごしております。ありがてえ話っす。
▼まだ空きがございまっせ!
そして最近の私は、Tverで「東京ラブストーリー」を見ております。
もうね、最高のノスタルジーですよ。
▼あ、最近のリメイク版じゃなくて、昔のガチなやつです。昭和感満載。
なんか、20代の若者の話なはずなのに(カンチは24歳だった…)、充満する色気のようなものは一体なんなんだ。
昭和の生命力の現れなのでしょうか。ほんと、今見ても面白い。
ということで(?)、ようやく続きを書こうと思い立ちました、みんなお待ちかねの「完璧主義と理想主義と自分への過剰な期待の話」シリーーーーーーーーズ!
もうきっと、これまでの内容なんか忘れちゃったと思うので、こちらからどうぞ。
【前回までのあらすじ】
おっす ! オラサトヒ!みんな 、待たせたな!
こないだは、どえりゃー(名古屋風?)人たちが「過大評価」なんておっかない言葉使うから、オラほんとにびっくりしたんだぞ!
それにしても 、どいつもこいつも随分オラのメンタルを痛めつけてくれたもんだ。
でもな。サイヤ人は相手が強ければ強いほど強さを増していくんだ。もちろん…サトヒだって。
次回(え!?)、サトヒンボールZ
「神も鬼畜生も死んだ」
母さん!すごーい!(悟飯の声)
と、前回までのあらすじなんだか、次回予告なんだかわからない形で始まりました。
▼あらすじを読んでも、なんのことだか全くわからない方へ
「推奨100リットルのボールに150リットル入れるから、爆発するんだ」という夫の痛恨の一撃を受けて瀕死になったところで
本田健さんや明石家さんまさんといった大御所が、「自分への過大評価」と優しく?言い放ったことで、いよいよ退路を断たれたサトヒ。
「耳が痛すぎるということは図星」であるものの
「そ…そりゃ、過大評価かもしれないけどね!別に好きでそうしてるわけじゃないんだから!」
とツンでもデレでもない思いが、腹の底から湧き上がるわけですよ。
別に、好きでそうしたくてしてるわけじゃねーーーーー!!!!!!(2回目)
過小なのか過大なのか、それが問題だ。
そんな大御所たちの教えを呟いたら、麗しのキャロ先生からこんなご質問を頂いた。
むむ…?(川平慈英風)
さすが、キャロ先生。鋭いご指摘でござる。
確かに「過小評価」というか、自分にはできないと思っているからこそ、やらなきゃと思って頑張っている節もある気がするわけであります。
そもそも「過大評価」だなんて、恐ろしいほど耳の痛い指摘を受けてもなお、そう簡単にはやめられない止まらないのには、何かしらのかっぱえびせん的理由があるとも思ったわけですよ。
自分の能力への過大評価や過信だと言われたとしても、その陰には「自分の限界以上に頑張らないといけない」と思わざるを得ない何かがあるってことです。
なので、サトヒ婆さん。それはなぜかということを、三日三晩考えておったー。(日本昔ばなし風にお読みください)
(三日三晩の心の声)
いやね、別にできると思ってるわけじゃないのよ。
というよりはむしろ、できる自分じゃないとダメだと思ってるのよ。
どっちも掘り下げてみたら同じって言われたら、元も子もないんだけども。(爆)
っていうか、別に自分の能力を信じてるわけじゃないのよ。
能力があるなんて、微塵も思ってるつもりはないのよ。
ただその可能性、一縷の望みにすがっているだけなのよ。
こういう自分であるべき、あらなければいけない。だから、そうであって欲しいという微かな淡い期待。
それを胸に抱えて、私は一介の武闘派として「日常」という名の戦場を生きているだけなのよ。
で、どうしてそんなにも不可能というべき、完璧な自分・理想の自分という一縷の望みにすがりつかなければいけないのか、といえば
そうか、私は、やるべきことができない自分には居場所がないと思っているのだ。
(心の声、これにて終了。チーン)
ちゃんとできない自分には存在価値がない。
嗚呼、この根深い思いたるや。
「できない」なんて言えないのよ。だって、それは私にとって”存在の死”を意味するから。
だから、「ちゃんとやれる自分」への期待を必死に持ち続けてきたのだ。
私が闇MAXだった時期にいつも感じていたのは、「私なんていない方がいい」という感覚。
今でも、究極に落ち込むと出てくる、ドス黒い感覚。
「どうせ、私なんていない方が良かったでしょう?」
思い返せば、今回のケンカ中にもそんな言葉をバズーカ並みにぶっ放していたっけ。
もちろん、それを言葉にするのは、ある種の試し行動みたいなもので
「そんなことない」
と言って欲しいだけなんだけど。(実際には、夫からは「は?何言ってんの?」と返ってきたが。笑)
できない私を許して欲しい。
そんな気持ちもあったのかもしれない。
しかし、やるべきことができない自分には居場所がないと思っている自分の根源は、自分がその自分に居場所を与えていないだけなんだよね。
できない自分、足りない自分に居場所を作ってあげてないのは、自分自身なのだ。
こんな自分、いない方がいいって、私はずっと自分を攻撃してるんだ。
それが、いわゆる思い込みであり、自分への呪いのようなもの。
逆に言えば、自分で「できない自分」に居場所を与えてあげられれば、投影の仕組みで周りから「いらない」なんて思われているように感じなくなるはずで。
だから、結論的に言えば、過大評価や過剰な期待の陰にあるのは、「自己肯定感の低さ」だったり「無価値感」だったりするってことになるのだろうなぁ。
…なんてことをアレコレ考えていたら、そもそも「過小評価」なのか「過大評価」なのかわけわからん状態になってしまったのだけれど(笑)
つまるところ、どちらにせよ「等身大の自分をありのままに受け入れられていない」ということは言えそうです。(⇒キャロ先生への回答)
そのままの自分じゃダメだと思うからこその期待
推奨容量100リットルの自分を、そのままじゃダメだと思っていて、150リットル入れられるはずなんだと思いたい、150リットルまで入れなくちゃと思っている。
無価値な自分、ダメな自分を感じたくなくて、そこから目を反らすために「あるべき姿」を自分の中に見たいと願ってしまう。
それが、自分への過剰な期待ということなんだろうなぁ、と思う私。
ということで、一連の騒動で改めて気付いたのは
私はまだまだ自己肯定感が低くて、無価値感が強い!
ってことや。のびしろガールや。のびしろしかないガールや。
無価値感が強い(強烈な”このままの私じゃダメ”感)
↓
無価値だと思っている自分を隠そうとする
↓
「あるべき理想の自分」への期待が高まる(ここが、いわゆる過信や過大評価ポイント)
↓
鬼軍曹を召喚して、あるべき自分に近づくべく努力するが、自分への期待が高すぎるために、”期待(理想)の自分基準”でハードルを設定してしまう
↓
現実の自分にはハードルが高すぎて、自信が無くなる
↓
無価値感が強まる
↓
ふりだしに戻るのエンドレスループ
で、そんな話をカウンセラー仲間に話してみたら
「感情を爆発させられるくらい、相手を信頼しているってことだよね」
「それくらい一人で抱え込んでしまうほど、大事に思う人がいるってことだよね」
「めちゃくちゃ大変な時期に、よく頑張ってるし、それだけ頑張れるって事が家族への深い愛情だよね」
なんて、私の暴走ストーリーが壮大な愛の物語に書き換えられて、大変恐縮なのでございますが。(お恥ずかしい)
しかも、我らがケイティ先生が私のブログからインスピレーションを得て、こんな素晴らしいアファメーションまで作ってくださったー!!!!
頑張っているけど、まだまだ足りないと思っちゃう。
自己犠牲的に尽くしているのに、報われない気がする。
もし、そんな無価値感の権化とも言える、私の同志のような方がいましたら、ぜひケイティ先生の柔らかヴォイスに癒されてくださいませ^^(文字版もあるよ!)
で、ですね。最後にお知らせをぶっこむのですが…
週末に、カウンセラー仲間内で行われるミニ講座という勉強会のようなものがありまして、そこで初めて名乗りを上げて講師にチャレンジしてきたのですが
そのテーマが、まさに
ムカチカーン!!!!!
だったのでした。(笑)
あまりに、自分の「無価値感」が根深過ぎるから、研究テーマにして講座にしちゃった次第ですわよ、奥さま。
で、その日のミニ講座は、私の他に我らが鬼畜生コンビマミコカウンセラーと、実録・オリーブ少女(!?)スズキチサカウンセラーが一緒でして、3人で励まし合って、打ち上げとかしちゃったりして、めちゃくちゃ楽しかったんですよね~。
で、あまりにこの3人の組み合わせが最高だったので、ミニ講座ネタをベースに何かやりたいね、なんて話になり…
年末に向けて、面白おかしい3人のコラボイベントを予定しちゃってますので…
ぜひともブログをチェキラッチョしてくださいねっ!!!
と、最後は壮大なステマ感を出して、このシリーズの幕切れとさせて頂きます。(笑)
あ、爆発騒動以来、夫は以前より家事を手伝ってくれるようになったし、自分も子どもを預けて積極的に自分の時間を取るようにしたので、今のところ割と穏やかに過ごせておりますよ~ん。
また事件があったら、ブログネタにして消化していきたいと思いますので、それはそれで乞うご期待…!(爆)
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました^^
ではまた!
コメント