愛あるみなさま、こんにちは!
サトヒです。
癒着体質からの、「アイデンティティ喪失問題」で壮大に絶望した話の続き…。
2日間くらいは本気で泣いて暮らしたのですけど、優秀な仲間たちのおかげで、何事もなかったかのように復活した自分に驚き。(笑)
よく、”自己肯定感が上がっても凹むことは無くならないけど、立ち直りは早くなる”なんて話があるけど、まさにそれを実感しましたわ。
今回は、ついつい「他人軸」になっちゃう自分をダメだと感じている人にとって、何かの気付きになるかもしれないし、ならないかもしれない…。(どっちやねん!)
「他人のために生きよ」という良識的な教え
さて、本題に入る前に前置きなんですが、私は昔から自己啓発本の類が好きだったのですね。
で、そういう類の本って、「自分のためではなく、他人のために生きよ」的な教えが多いじゃないですか。
それこそ、20代のころは自己成長へのやる気が半端なかったし、根がマジメーヌなので、そういう教えを自分のポリシーとして忠実に取り込むわけです。
「自分より他人!他人のために生きてこそ我が人生!徳を積むことこそ現世の喜び!」
みたいな。
元々の癒着体質のおかげ(せい?)もあって、それほど苦なくできたというのも、そんな教えにハマった理由なのかもしれません。
でも、掘り下げてみればその目的がどこにあるかというと
「人生をうまくいかせるため」
とか
「人から認められる素晴らしい人になるため」
とかだったので、結局は自分の利益のための犠牲的行動になっちゃうんですよね~。
そしてそのもっと奥には、自分の「無価値感」であったり、「罪悪感」であったり
何かしらの自分自身に対するネガティブなイメージを払しょくするための手段という側面もあったりするわけです。
前回、「癒着」の意味を引用しましたが
比喩的に、立場が違うのに利害を共通にする両者が、ぴったり結びつき合うこと。
という言葉通り、実はお互いに利害が一致しているからこそ、そこから抜け出せなくなるんですよね。
(助けを求めているように見える相手と、助けることで自分の価値を感じたい自分)
そしてこれまた前回も書いた通り、「癒着」は究極の他人軸状態とも言えるので、自分の意志に関係なく相手に振り回されるような感覚がとにかくしんどいわけで。
自分の利益のために、癒着してまで相手を助けることを選んでいるはずなのに
求めていたはずの利益は得られたんだか得られてないんだかよくわからないままに、ただただしんどさだけが積み重なっていく。
だから、今度はその「他人軸」を悪者にして、どうにかしなければと「自分軸教」に染まっていくわけです。
でも、元々癒着体質で変態の気がある人間には、「自分がどうしたいか」が見えにくいわけで。
前回も書いた通り、「自分の軸」とは「自分がどうしたいか」そのものであるとのことなので
結果的に「自分軸」がよくわからないままに、「他人軸」な自分まで否定して、どうにかしようともがくことで苦しみの上塗りをするのですな。
アーメン。
「他人軸」を悪者にしていた「自分軸」のない私
とまぁ、前置きが長くなりましたが、以上の流れで私は「他人軸」な自分をダメだと思っていたのです。
「他人軸」だから、自分がわからない。
「他人軸」だから、ヴィジョンが描けない。
つい他人に迎合して、自分の意見が後回しで。
自分の中に、「絶対にこれ」っていうものが見当たらない。
割となんでもよくて、あんまりこだわりがなくて。
すごく好きなことと、絶対に嫌なことというのが、イマイチよくわかっていない。
だから、他人の意見に流される。
常に、自分以外の人の方が正しいような気がする。
人に合わせるのは苦じゃない気がしているけど、それって本当はただ自分の気持ちを無視してるだけなのでは?という言葉に動揺する。
自分がどうしたいのか、考えてみてもやっぱりよくわからない。
だから、聞かれても答えられない。
根無し草のようにふらふらと漂っているだけで、自分がどこに向かいたいのか、何もわかっていないような気がする。
そんな感覚の原因は、私が自分軸を見失って、他人軸全開で生きているからなんじゃないかと。
そんな風に、どこかで自分を責めていたのですよね。
情けは人のためならず
そして、ようやくここからが長い本題。
私は子の夏休みに実家に帰っておりました。
その際、ジャンプ漫画大好きなロマンあふるる男であるオトンが購入した、「鬼滅の刃」の単行本に読み耽ったのですが
実家にあったのは10巻以降だったのですが、最終巻の23巻を読み切るまでに一体何度号泣したことか…。
中でも、私の心をめちゃくちゃにかき乱したのは、単行本14巻の「時任無一郎」くんのエピソードだったのでした。
そこから、私の全力推しメンに一気に上り詰めた無一郎くん。
刀を持ってから、たったの2カ月で柱に上り詰めた天才剣士の無一郎くん。
(注:以下ネタバレ含みまくりーぬですので未読の方はご注意ください)
無一郎くんは、鬼に兄弟を殺された経験により、過去の記憶と共に人間らしい感情を無くしてしまった14歳の少年なのですが
ずっとずっと、頭の中に霞がかかったような状態で、自分を見失っていたのですね。
だから、いつも目に力が無いというか焦点が合わない感じで、短期記憶にも難があるらしく、なんでもすぐに忘れてしまう。
しかも毒舌、配慮が無くて残酷(炭治郎談)、そして昆布頭(小鉄談)。
言っていることは確かにド正論なのですが、徹底的に気持ちや感情を排除した発言なので、とにかく相手に冷酷に突き刺さる。
そんな登場の仕方だったので、当初の無一郎くんのイメージはかなり悪かったわけです。
しかし
君は必ず自分を取り戻せる 無一郎
ささいな言葉が始まりとなり 君の頭の中の霞を鮮やかに晴らしてくれるよ
という鬼殺隊の親分でもあるお館様の言葉通り、炭治郎たちとのふれあいや、鬼との闘いの中で、少しずつ記憶を取り戻していきます。
中でも、大きなきっかけになったのは
人のためにすることは、巡り巡って自分のためにもなっているものだし
という炭治郎が何気なく言った言葉。
いわゆる「情けは人のためならず」ってやつですね。
元々それは無一郎くんにとって
人のためにすることは 巡り巡って自分のためになる
そして人は、自分ではない誰かのために
信じられないような力を 出せる生き物なんだよ 無一郎
という父からの教えだったのですが
無一郎くんは炭治郎の言葉によって、過去、双子の兄である有一郎くんとその言葉について話していたことを思い出します。
記憶を取り戻す前の無一郎くんは、気弱で優しい子。
逆に、兄の有一郎くんは、強気でちょっと口が悪い。
二人の両親は、二人が10歳のころに亡くなっていたのですが
具合が悪かったことを言わずに無理を重ねて亡くなったお母さんと、そのお母さんのために、嵐の中薬草を取りに行って亡くなったお父さん。
その二人の姿を見ていた有一郎くんは
「誰かのために何かしても、ろくなことにならない」
と感じていたのでした。
そんな有一郎くんの言葉を
「人のためにすることは巡り巡って自分のためになるって意味だよ」
と訂正する無一郎くんに
「人のために何かしようとして死んだ人間の言うことなんてあてにならない」
とばっさりと言い放ちます。
無一郎の無は、”無限”の”無”
そんな中、実はすごい剣士(雑な説明)の子孫だった二人に、鬼殺隊のスカウト(あまね様直々)がやってきます。
無一郎くんは、「鬼に苦しめられている人たちを助けるために、剣士になろうよ!」と無邪気に言うのですが
それを聞いた有一郎くんは大根をぶった切りながら、怒りをぶちまけます。
「人を助けるなんてことはな、選ばれた人間にしかできないんだ!」
「俺たちにできること!犬死にと無駄死にだよ!父さんと母さんの子供だからな!」
これまでため込んできた思いを吐き出すように、無一郎くんに怒りをぶつける有一郎くん。
それは、両親を救えなかった無力感や罪悪感を感じないための、絶望的な怒りのようにも見えました。
ただ、だからこそ弟の無一郎くんまで、誰かのために死んで欲しくなかったのだと思います。
見ず知らずの誰かのために、自分の命を投げ出してまで鬼と戦わなければいけないような人生に、弟を向かわせたくなかった。
それを止めるための、弟を守るための暴言だったのでしょうが、そんなことはつゆ知らず、無一郎くんと有一郎くんは仲違いしてしまいます。
そしてその後、二人は寝ていたところを鬼に襲撃されます。
そこで、鬼に致命傷を負わされた兄を見た無一郎くんは、激しい怒りに突き動かされ、我を忘れて鬼を打ち倒します。
しかし、家に戻ってみると、そこでは既に息も絶え絶えな兄の姿。
有一郎くんは、最後の力を振り絞って、神様に祈っていました。
「どうか…弟だけは…助けてください…」
そして、それまで「無一郎の無は無能の無」だの「無一郎の無は無意味の無」だの、無一郎くんの名前を揶揄していた有一郎は言います。
わかって…いたんだ…本当は……
無一郎の…無は……”無限”の”無”なんだ
お前は自分ではない誰かのために 無限の力を出せる 選ばれた人間なんだ
その言葉を思い出した瞬間、全ての記憶を取り戻し、痣の出現とともに無一郎くんは覚醒するのです。
ダバーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(泣)
号泣必至。
鬼殺隊に入って、たった2カ月で柱になったという天才的な逸話を持つ無一郎くんですが
彼の刀を作っていた刀鍛冶の人(鉄井戸さん)だけは、無一郎くんの抱える不安や陰ながらの努力を、深く理解してくれていたのですよね。
誰がわかってくれようか
どれだけ限り限りと余裕がないか
物を覚えていられんことの不安がどれだけか
そして血反吐を吐くような努力を
誰がわかってくれようか
儂はお前さんが使った刀を見ると涙が出てくる
記憶を無くした中でも、身体に染み付いた”怒り”を原動力に、ただただ強さを求めて頑張ってきた無一郎くん。
お館様に認められた剣士として、どうにか自分を奮い立たせて戦い続けてきたのでしょう。
どんだけ、「いい子」なんやーーーーーーーーーーーーーー(泣)
号泣必至。
登場の仕方が、あまりにも配慮が無くて残酷な昆布頭だったところからの、実はこんなに「いい子」だったエピソード。
下げて上げるがうますぎるぜ…呉峠先生。
「誰かのために」を「自分軸」に
もうね、ご存じの通り、私は完全に自分を投影して読んでいるわけですが(笑)
もちろん、私には「自分ではない誰かのために出せる無限の力」なんてものはありませぬが。
何かに選ばれた人間でもありませぬが。
サトヒには、”無限”の”無”の字も入っておりませぬが。(無念の無…)
それでも、私が「誰かの役に立ちたい」と願う気持ちは、もしかしたら、実は、自分が思うよりもっと価値あるものなんじゃないか
そして、それがどんなに「他人軸」の様相を帯びていたとしても、自分にとってそれが大切な思いならば、自分がちゃんと大切にしてあげてもいいんじゃないか
自分じゃない誰かを喜ばせたい
自分じゃない誰かの役に立ちたい
自分じゃない誰かに笑顔でいて欲しい
そんな思いを「自分軸」に据えたら、それもまた「確固たる自分」になるんじゃないか
そう思ったのです。
そして元々は、その思いは「他人軸」じゃなかったはずなのです。
純粋に助けたい誰かがいて、純粋に助けようとした。
役に立ちたくて、笑顔にしたくて、自分なりに力を尽くした相手がいた。
(それは大抵の場合、両親ということになりがちだけれど)
でも、自分が思うようには助けられなくて、無力感と罪悪感を抱き
そこから、その挫折感を払しょくするために、勝ち目のないリベンジを繰り返すがごとく、自分じゃない誰かを「軸」にして生きてきたのでしょう。
自分が無価値でないことを証明するために。
「無力な自分」という罪を償うために。
そうしていつしか、本来の目的だったはずの「誰かの役に立つ」という純粋な願いは、自分の価値を図り、存在を許されるための手段となってしまっていました。
いつの間にか、「軸」がズレてしまっていたのですね。
でも、本来の目的に立ち返ることで、「確固たる自分」を取り戻せる。
「誰かの役に立つこと」
それそのものが、自分の喜びであったことを思い出せたなら
自分が誰かの顔色を窺って、期待に応えようとすること自体が、ちゃんと自分軸での選択になる。
「自分がなんのためにそれをするのか」
という純粋な願いを思い出すことが、「確固たる自分」を取り戻させてくれると
私は、この無一郎くんエピソードを読んで理解したのでした。
そう、「誰かのために」を「自分軸」にしたっていい。
ちゃんと自分の意志で、自分の喜びのために、誰かの役に立つ。
「誰かのため」を、受け身で自分の価値を図るための手段にするのではなく、”自分の喜び”という目的を軸にしたら、それもまた立派な「自分軸」になるんだと。
無一郎くんも、こう感じています。
お館様の仰った通りだ
“確固たる自分”があれば 両の足を力一杯踏ん張れる
自分が何者なのかわかれば 迷いも戸惑いも焦燥も消え失せ
振り下ろされる刃から 逃れられる鬼はいない
「何のために」が信念となり、「確固たる自分」を思い出させてくれる。
自分のことだけじゃ、頑張りきれない。
一緒にいる誰かにも、幸せでいて欲しい。
自分の周りの平和と調和を、何よりも願ってしまう。
だからこそ、誰かのために頑張れる。
自分のこと以上に、力を発揮できる。
そうして誰かの役に立てることが、ただ、うれしい。
だったら、それを堂々と「自分軸」として誇ってもいいんじゃないだろうか。
それを軸にして、両の足を力一杯踏ん張ったっていいんじゃないだろうか。
そしてそれは、「いい子」の最大の強みであり、才能なんじゃないだろうか。
(その才能を最大限発揮するために、自分”も”大切にする必要があるのだけどね!→ここ重要)
▼っていう話をする講座(壮大なステマ感)
ということで、壮大な鬼滅のネタバレを繰り広げつつ(笑)
私が無一郎くんの覚醒により、「他人軸」の中に「確固たる自分」のカケラを見つけた話をさせて頂きました。
次回は、色々な出来事と人の言葉が絡み合い、自分が忘れていた「力」を取り戻す話をしたいと思います。(最終回!)
ではまた。
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