愛あるみなさま、こんにちは!
サトヒです。
ワタクシ、「欲」がよくわからねー!なんて崇高なほざきをかましておったのですが、よく考えてみたら、アクセサリーが大好きだったことを思い出したんですね。そういえば、いつも欲しがってるわ~って。
思い返せば、小さい頃からお祭りの屋台でキラキラしたネックレスを買ったり、パワーストーンとかキレイな石とかを集めたりしていたので、その延長線上にあるのでしょうね。
子どもの頃から好きなものって、本当に好きなものって言いますし!
その話を、いつだか相方おまみーぬに話したら、「全部の指に、メリケンサックの如く指輪をつけたらいいよ!」とアドバイスをくれて(笑)、それを一つの野望にしております。
で、先日私は出産したわけですが、上の子の時も出産記念にアクセサリーを買ったので、今回も何か記念にかこつけて買ったれや!!と思い
かこつける(託ける):直接の関係がない他の事柄と無理に結び付けて、都合の良い口実とする、という意味
ちょうど右手の人差し指につける指輪が欲しいな~と思っていたところだったので、あれやこれやとネットで指輪を物色していたのです。
ちなみに、指輪ってつける指によって意味合いがあるそうで、人差し指につける指輪を「インデックスリング」と呼ぶのですが
index=指標、指針
ということで、何か指で指す時にも使われるのが人差し指であることから、「夢の実現に向けて、行動力や集中力を高めてくれる指」と言われるようですよ。
まぁ、そんなウンチクはただの後付けでして、単に人差し指に指輪をしてる人を見て、「シャレオツ~!!」と思って真似したくなっただけなんですけどね。(笑)
指だけでなく、右手・左手のどちらにつけるかによっても、意味合いやパワーが変わるそうで、右手は「現実」、左手は「精神」への結びつきが強いんですって。
詳しくは、例えばこちらのサイトなどをご参考まで。(詳細説明は他力本願なのがサトヒ流)
と前置きにも関わらず話が脱線してますが、これにしようかなという指輪があったので、毎年誕生日に満期になるようにしている、デパートの友の会の積み立てで買おうかと思っていたのですが
なんと、なんと、なんと…!
夫氏が買ってくれるってよ!!!!!!
元々、積み立てをオーバーする分を家計から出してもらおうかなーとかは考えていたのですが、「買ってあげようか?」というあまりに突然の想定外な申し出に、脳内パニックを起こした私。
言葉が出なくて
「え…、あ…、う…、ヤッター」
と棒読みでとりあえず喜んでみたら
「別にいいならいいよ」
と持ち前のツンを発揮して、申し出をソッコーで取り下げようとしたドSな夫氏よ…。
嬉しさと困惑で居ても立ってもいられず、仲間内グループチャットで話したところ
「歯ぁ食いしばって受け取れや!!!」
との愛ある活を入れて頂き、腹を括ってありがたく全額出してもらうことにしました。
覚悟が決まれば、純粋に嬉しいものですな~。
これまで家計から出すことはあっても、純粋な夫氏のお小遣いで何かを買ってもらうことなど、結婚してから無かった気がするので。(忘れてるだけだったらすまん)
夫氏曰く、買ってくれる理由は
「在宅勤務でお金をあまり使わなかったので、お小遣いが余っているから」
とのことだけど、まぁこれも彼のツン的言い訳じゃないかとニヤリとしております。
「こちとら、腹かっさばいたからな!!このくらいの労いがあっても当然やろ!」
と、私も心の中でツン返しをしておくことにします。
そんな話を書いていたら、お友達のHiroko Roseちゃんが、指輪にまつわる素敵なエピソードをちょうどブログで公開しとった。
我が家のような、ツンvsツンの心理的攻防戦ではなく、素直で甘くて温かいやり取りをとくとご覧あれ。
引き寄せの極意は、自分の願望にいかに素直になれるかだと思う私です。ええ。本当に。
「あるものに感謝する」って、難しいよね
さてさて、先日ココロノマルシェでこんな回答をしまして。
色々考えながら書いたのですが、書けば書くほど
「あるものに感謝するって、難しいよな~」
と思ったんですよね。
ほんと、「言うは易し、行うは難し」の代表例。
頭ではわかるんですよ。「ある」を見るのが大事なんてことは。
▼過去、こんなブログを書いたしな!
自分が「ない」ものばかりを見ているから、不足感を感じるし、満たされないし、幸せを感じられないんだなんてことは。
だけど、わかっちゃいるけど、どうしてもやめられねえ…から悩むわけで。
「ある」ってことも、頭ではわかるんですよ。
「ない」と思っている陰には、何かしら「ある」ものがあるってことは。
だけど、本当に欲しいと感じているのは「ない」と思っているものだから、どんなにそれ以外に「ある」ものがあっても、納得できないんですよ。
いくら「ある」と言われても、それじゃないんだよー。本当に欲しいものは「ない」んだよー。(泣)
って感じで、ますます「ない」ことが身に染みて、余計空しくなったりしちゃうんですよね。
ということで、ココロノマルシェの回答で
「あるものに感謝する」って文字にするのは簡単なので、ついつい安易に語られがちですが、実際には色々な心理が絡んでスムーズにいかないことの方が多いと思うのです。
なんてことを書いたので、そこに絡む「色々な心理」を私なりにまとめてみたいと思いました。
理屈はいらんから、解決策だけを教えてくれよ!という人は、こちらへどうぞ。
「ない」ことは目に入るようにできている
人が、なぜそんなに「ない」ものばかりを見ちゃうのかなーってことを考えると、そもそも人は欠けたものが目に入るようにできているという話があります。
それは、外敵から身を守るための自己防衛的な本能とも言われています。
また、これはゲシュタルト心理学で使われる「欠けた円」という図なのですが、ついつい右側の欠けた円の方が気になってしまう人が多いのだそう。
欠けていることが良いか悪いかは別として、確かに欠けている円の方に目がいっちゃいますよね。
その上、「空白の原則」と言って、人の脳は何か欠けている部分があるとそれを埋めようとする働きがあるそう。
ついつい欠けているところを探して、どうにかしようと考えてしまうのは、人間の性みたいなもんなのかもしれません。
だとしたら、いちいち自分の「ない」ものが目に入って仕方ないと思う時は
「今日も絶好調で脳が正常動作している!私はニンゲンを満喫している!」
と形勢逆転の返し技を決めるが如く、無理やりポジティブ変換してみると過剰に落ち込まずに済むかもしれません。
さあ、ご唱和ください!
にんげんだもの by みつを
「ない」ことが問題なのではなく…
本来は、「ある」ことも「ない」ことも、ただの状態を示す言葉です。
だけどそれを、自分を否定する材料にして問題化することが問題なのだと思うのです。
私たちが「ない」ことを認識する時って、何かしら「ある」ものと無意識に比べています。
その比較対象は、身近な誰かかもしれないし、自分自身が漠然と抱いている理想の姿かもしれない。
「誰かにはあるのに、自分にはない。」
その感覚が、劣等感となり、無価値感となり、自己否定的な感情を産む原因となるわけです。
また、「ない」ことで自分を責める材料になるものって、無意識に自分に「あるべき」だと思っているものだとも思うんです。
「あるべきものがない」
という欠落感もまた、自己否定の原因となるでしょう。
本来、「ない」ことも「ある」ことも人によって違うものだし、その「ない」と「ある」のバランスの違いを「個性」とか「好み」とか「自分らしさ」と呼ぶのだと思います。
なのに、前述の通り「ない」ものは目に入りやすく、改善対象として捉えがちな脳や心の仕組みがあるために、ついついそれを「ダメ」なものとして、否定してしまうから辛いわけです。
「ダメ」という感覚は、「あるべき」という自分の前提によって生まれるジャッジメントです。
ということは、「あるべき」ものを「なくてもいい」と受け入れる寛容さが、自己否定を緩めてくれるカギになるのでは?と思うのです。
「ある」ものに価値を感じられない理由
そもそも「ある」ものは目に入りにくい、という話を書きましたが、「隣の芝生は青く見える」という言葉もある通り、自分の芝生の青さはなかなか感じられないのもまた
にんげんだもの by みつを
の宿命なのだと思います。
なぜそういうことが起こるのかというと、そこには「投影」という心の仕組みが関係するのでは?と考えています。
つまり、自己肯定感が低かったり、自己価値を感じられていないと、その自分自身に対しての感覚を外側にも投影するため、自分に属するものに自分自身を重なって見てしまい、自己価値を投影して価値を感じられなくなるのでは?ということです。
何か欲しいものがあって、手に入れるまではすごくステキに感じられるのに、手に入れた途端に色褪せて見えるような感じがすることってありません?
それって、手に入れた瞬間にその物が自分の一部になってしまうため、自分が潜在的に持っている無価値感を、そのまま自分の物に投影しちゃうせいで起こる現象なのではないかなと思うのです。
つまり、「自分を大したことない人間だと思っている=大したことない自分が持っているもの」と変換されてしまい、手にしている物…つまり自分に「ある」ものの価値や魅力がわからなくなってしまう、ということです。
だとすると、自分に「ある」ものに対して、「嬉しい」とか「ありがたい」と感じるためには、投影元である自分自身に対するセルフイメージを向上させなきゃあかんわけです。
自分自身の存在に価値を感じられれば、自分にあるものにも価値を感じられるようになる。
ということで、結局は自己肯定感という話になりますわな。
ええ、いつもの話です。(笑)
で、「ある」を見るにはどうしたらいいのさ
ということで、得意の(屁)理屈を散々並べ立てたところで、どうしたら「ある」が見えるようになるのか?という解決策になりますが
ココロノマルシェの回答で
「ない」ことを受け入れてこそ、その裏側に「ある」はずのものがようやく見えてくるのだと思うのです。
と書いたのですが、「ある」を見るためには、まず「ない」を受け入れましょう!というのが一つの提案になります。
この世は相対性で成り立っているので、闇がなければ光もないように、どちらか一方の概念だけで存在することはできません。つまり、「ない」と「ある」は表裏一体のセット販売なのです。
ということは、「ある」を得るためには、「ない」を引き受けなければいけない、ということになります。
ただ、「ある」は「ある」でも、そこには”能力や性質など目に見えないもの”と、”お金や物や関係性など比較的目に見えやすいもの”があり、それぞれ対策が変わってくるように思うので、分けて書いてみたいと思います。
① 自分の能力や価値など、目に見えないものが「ない」と感じてる場合
自己否定で自分の「ない」を責めている時って、「ない」自分に対して必死に抵抗している状態なのです。
「違う違う、そうじゃ、そうじゃなーい」
と、「ない」ことを遠ざけようとしている。自分の一部として、受け入れてないのです。
そうすると、「ない」こととセットになっている「ある」こともまた、遠ざけられ、否定されることになります。
よく、長所短所は紙一重なんて言いますが、例えば私には「怒りっぽい」とか「飽きっぽい」という面があるのですが、「怒りっぽい」というのは、「情熱的」であったり「感情表現が豊か」とも言えますし、「飽きっぽい」というのは「好奇心旺盛」であったり「行動力がある」とも言えます。
だけど、怒りっぽい自分や飽きっぽい自分を否定していた間は、穏やかで落ち着いている人や、一つの事を集中して極めているような人に憧れて、違う自分になりたいと願っていたので、自分の資質の長所的な側面を見たいとも思わなかったし、見ようともしなかったのです。
でも、結局は自分は自分でしか生きられないわけだし、自分の持って生まれた気質や、経験を通じて身に付けてきた在り方のようなものをベースに生きることが、一番楽で、幸せに成功できる生き方なのだと気付いてからは、自分が短所だと思っている面の裏にある、長所的な部分を大切にしようと思えたのですね。
つまり、短所(ない)を受け入れることで、長所(ある)が見えるようになった、ということ。
この要領で、「ない」自分を丸ごとOKにしてみたら、実はそこに「ある」はずのものに気付けるようになるはずですよ^^
② お金や物や関係性など比較的目に見えやすいものが「ない」と感じている場合
「ある」か「ない」かが誰の目にも明らかな分、実際に不満や不安を感じやすいのは、こっちだと思うんですよね~。
例えば、めちゃくちゃ彼氏が欲しいと思っているのに、彼氏がいない状態で「ある」なんて思えるわけないだろ!!!って話ですよ。
明日のご飯を買う余裕もないのに、お金が「ある」なんて思えないわけですよ。
なのに、「ある」を見ましょう、「ある」に感謝しましょうなんて言われても、キレイゴトにしか感じないし、「は?頭おかしいんじゃないの?」と怒りすら湧くことでしょう。
とは言え、先ほど「ない」と「ある」は表裏一体であると書きましたが、「ない」と思っている裏には絶対に「ある」ものが存在します。
よく、コップの水を「もうこれしかない」と感じるか、「まだこんなにある」と感じるかみたいな話がありますが
水がない部分には、空気がありますよね。何もないように見える部分にも、必ず何かはあるわけです。
なんだけど、「もうこれしか水がない!!!!」と考える時って、大抵水がなくて飢えてる時だと思うんです。
砂漠の真ん中で、喉がカラカラで、助けも見当たらないような状況で
「まだ、こんなに水があるぜーーー!!なんなら、空気はこんなにあるぜーーー!!!うおおおおおお!!!」
と恋が走り出したら、君が止まらない…なんてことになるなら、生存本能がちょっとおイカれになっている可能性も高そうです。
そう考えると、私たちが「ない」ことで自分を責めたり、不安や不満を感じる時というのは、「欲求」が満たされないことで何らかの危機感を感じている時だったりするのですね。
先ほどの例ですと、砂漠の真ん中で水が無い状況で感じている危機というのは、生きていけない危機感ですね。
つまり、「生きたい」という欲求が満たされないので、水が必要だと感じている。
だけど、もし目の前に突然、コップに入ったりんごジュースが現れたら?
とりあえず飲み物があれば命の危機を脱せるわけですから、水じゃなくちゃいけないわけじゃないんです。
でも、その時「絶対に水を飲まなければいけない」と水だけに執着していたら、目の前にりんごジュースがあっても気付かないか、スルーしちゃうんです。
「これじゃねええええええ!!!!!」
とコップを握り潰して、流血事件に発展することでしょう。
だけど実は、私たちが「ない」と感じて必死に欲しがっているものもまた、砂漠の水のようなものだと思うのです。
本当は「水」じゃなくてもいいのに、「水」がないとダメだと思って、「水」だけに執着している。
だから、「水」以外のものが見えない。
だけど、身体を潤すのは、水じゃなくちゃいけないわけじゃない。
お金も物も人間関係も、そこで感じたい気持ちだったり、満たしたい思いだったりが必ず存在します。
だからまずはそれを見てあげましょう、と。
それは例えば、愛されている感覚だったり、満たされている感覚だったり、安心感だったり、豊かさだったり、自分の価値だったり、目に見えるものを通して自分が感じる思いこそが、本当は欲しているものなのです。
その本当は欲している感覚に焦点を合わせると、それが必ずしも自分が「ない」と思っているものからしか得られないわけではないということがわかるはずです。
自分が感じたい気持ちは、実は既に自分の人生の中で何度も感じられるチャンスがあったと気付くのですね。
そうやって心を開いて、実は既に与えられてきたものに気付けるようになっていくと、自分に「あった」ものの価値を、自然と受け取れるようになっていくのだと思うのです。
恋人はいないかもしれないけど、愛を与えてくれる人はいる。
お金はそんなにないかもしれないけど、感じられる豊かさはある。
持ち家はないかもしれないけど、安心して住める場所はある。
とはいえ、やっぱり「お金」は欲しいし、「恋人」は欲しいし、「家」も欲しいというのであれば、「ある」ことを認識した先で、改めて願えばいいだけの話。
それはニーズではなく、純粋な願望となり、希望となるのです。
引き寄せの法則でも、感情を先取りするのが大切と言われるのは、「今」が拡大するようにできているから。
何かを得ることで感じたい感情を先に感じることができれば、それと同じ感情を感じられる出来事をこれからもどんどん創造していけるのですね^^
それは、今自分に「ある」と思えれば、もっと「あるはず」のものを無意識に探すようになり、やっぱり「ある」自分を確信していけるからです。
とは言いつつも、個人的に「ある」を見るために一番大事だと思うのは、「ない」から欲しいと切望せざるを得ないその心の痛みや苦しみを、見て見ぬフリをしないこと、だと思うのです。
ただただ、その心に寄り添って、「そう感じているんだね」と言ってあげるだけでも、「ない」と感じている自分を受け入れることになります。
「愛されていない気がして不安なんだね」
「自分には価値がないような気がして悲しいんだね」
自分が感じている本当の気持ちをまっすぐに受け止めずに、「ある」を見なきゃダメだ!見れない自分じゃ幸せになれない!と自分を追い込むのは、結局「ない」気持ちを強化するだけなのでね。
「ない」気持ちをしっかりと受け止めるというのもまた、「ない」を受け入れる事と同義だと思っています^^
毎度言うように、「人生は自分の思い込みの証拠探し」なのです。
自分があると思えばあるように見えるし、ないと思えばないように見えるのがこの世界の仕組みです^^
ということで、結論。
「ない」自分を責め続けたり、絶望したりするのではなく、まずは「あるべきもの」が「ない」自分をそのままでマルにしてみると、想定外の所で自分に「ある」素晴らしいものに気付けるはずですよ^^
いやはや、それだけを言いたいだけだったのに、説明がクッソ長くなってしまいました。
ま、いつものことですわね。(笑)
ではまた!
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