さよなら、私のエヴァンゲリオン:親を乗り越えて、大人になるということ

心理分析

愛あるみなさま、こんにちは!

サトヒです。

子どもが小学校に通い始めて早2週間…。ぜんっぜん自分の時間が無かったーーーーーーーーーー!!!

しばらくは給食が無いので、朝学校まで送ったと思ったら、数時間後にはお迎え。

ようやく先週木曜から慣らし給食なるものが始まり、いよいよ今週からは本格的な給食&通常授業が開始。

やっと…やっと、自分の時間が長く取れるようになりましたわーーーー(泣)

4月に入ってから、本当に子を育てることしかしてなかった感。。。

以前感じていた「何もしていない感覚」は、今や「何もできない感覚」に置き換わったのですが、何をしていないのか、何ができていないのかと考えてみてわかったのは

じ・ぶ・ん・の・こ・と

だったのですね~。

▼「何もしていない感覚」の話

誰かの役に立つとか、何かを与えるとか、そんなかっこいい話じゃなかった。

私のエゴが満たされる、達成感と満足感と充実感のある物事ができていない、というだけの話だったことが判明。(笑)

それは、自分の内側に集中することだったり、やりたいと思ったことをやることだったり、思考を整理することだったり、自分を優先することだったり。

そういうことができずに、周りに振り回されているような感覚ばかりが積み重なっていくと、どんどんご機嫌レベルが低下して、世界と人生に絶望しかけてくるのですよ…。

「私は何のために生きているんだっけ…?」

みたいな、哲学的命題を考えだしたり、機嫌が悪くなって、家族に対してイライラの牙を剥きだしたり。

家族の命運は、母の機嫌にかかっていると言っても過言ではないので、そういう時は「早急かつせっせとご自愛」しなきゃあかんと痛感。

とにかく、今より1㎜でもいいからご機嫌になることを!!!

というのが、最近のモットーでございます。

やっとのことで…

さて、そんな私のご自愛活動の一環として、ようやく、ようやく、長らく見たかった「シン・エヴァンゲリヲン劇場版 :ll」を見て参りました!!

良かった!とにかく良かった!!

あまりに良くて、見た後からずっとエヴァのことばかり考えていて、流す音楽は宇多田ヒカルのBeautiful World ~ 桜流し ~ One last kissの無限ループかつ、マンガ14巻を一気読み&TV版のラスト2話を見返した上での旧版映画を見る予定ナウ。

▼浸るにはこちらのアルバムがオススメ

すぐに、もう一回見たくなったほど。

久々のエヴァワールドにどっぷりと酔いしれて、色々と感じたことがあったので、超個人的な感想を書き記したい!以下、ネタヴァレ注意!

…と言いつつも、ネタバレできるほど、話の内容を理解できていないので、細かい設定とか伏線の中身とかは全く書けませんのでご安心ください。(笑)

エヴァンゲリオンの新劇場版は、序・破・Qと続いてきましたが、「破」までは旧版の流れからそう激しく逸脱していなかったので、なんとなくついていけたし、個人的には「破」がすごく好きだったので良かったのですが

「Q」になって、そりゃもうカオスですよね。頭の中、クエスチョンマークだらけの1時間46分。用語が難しくて、何言ってるかわかんないし、ここは誰、あなたはどこ状態。

そもそも、「破」の終わりで、ミサトさんが

「行きなさい!シンジ君!誰かのためじゃない、あなた自身の願いのために!」

とシンジの背中を思いっきり押したくせに、14年後のQの世界では

「あなたはもう、何もしないで」

と突然の手のひら返しで、ビックリしたわけよ。

鳩に豆鉄砲。そもそも、行けと背中を押したのは貴女やんけ!!

女子の気まぐれ?女心は秋の空現象?

とアレコレ腑に落ちない感覚を持ち続けたまま、何度見返しても「意味わかんねーな」と思っていたにも関わらず、そういった矛盾らしきものも、今回の映画でうまく回収されて、まとまっていたのがゴイスー。

設定とか、関係性とか、よくわからないなりにも、「ああ、これで本当に終わったんだ。」とある種の寂しさを残しながらも、無事幕が降りる瞬間を見届けることができたことに清々しさを覚えました。

そして、泣いた。

「シンジくん、大人になったね。」

そう思いながら涙を流して、そして気付いた。

「そっか、私もいつの間にか大人になってたんだ。」

と。

思春期の憂鬱の投影

ちなみに、私が初めてエヴァを見たのは、高校2年生の時。

夕方のテレビ東京でのリアルタイムでは見れてなくて、その後話題になったことで深夜に一挙まとめ放送とかをやっていたのを、録画して見たのが最初だったと思います。

エヴァがどうしてこんなに人気なのかと言えば、庵野監督自身が発言して物議を醸したらしい「ロボットアニメ」的な要素(エヴァは散々ロボットではないと言われているのに!笑)や派手なアクションシーンのカッコよさ、個性的なキャラクターたちの魅力はもちろん、心理的、スピ的、宗教的な背景との深い関わりや、謎の多い複雑な設定があるからなのだろうな、というのが私の個人的意見。

それぞれの好みによって、色々な切り口で見たり、感じたり、考えたりできることが、他人の心を惹きつけて放さない一つの理由なんじゃないかと。

私はもちろん、心理的・スピ的側面からこの物語を捉えてしまうわけだけど、よく考えたら、高校生の頃って、私の暗黒時代の幕開けみたいなところがあるので、そんな時期にこのアニメに出会ったことは、私が自分の心を深掘りしたり、心理学を学びたいと思った大きなきっかけになっていたのかもしれないなぁ、なんて風にも感じる。

TV版を見返して思うけど、よくあんな内容を夕方の子供向けに放映できたなと感心するくらい闇が深い。(笑)

黒画面に白文字で、「分離不安」とか「愛着行動」とか、ビビるやろ。

▼こんな感じ(こちらで作りました。笑)

夕方18時半、夕飯時よ?

今となれば、何が言いたいのか、それがどういうことなのかがわかるようになったけど、夕飯時の片手間に見るには、ちょっと闇が濃すぎるというか。エロやグロっぽい描写もあったりしたしね。(笑)

だけど、当時の私はそういう知識が全くなかったにせよ、自分の心の中にある空虚感や寂しさや無価値感にはうっすら気付いていて、似たような心の痛みを抱える登場人物たちに、自分自身を重ねて見ていたのですよね。つまり、自分の気持ちを投影して見ていたわけです。

主要人物、全員アダルトチルドレン疑惑があるほど、みんな何かしら親との葛藤を抱えて生きているアニメなので。

自分の無価値感を埋めるべく、必死に戦う登場人物たちの姿に自分を重ねながら、彼らの感じることを通じて自分の心を探っていたのだと思います。

私が感じる、この気持ちは何?

どうして、こんな風に感じてしまうの?

もう、こんな気持ちは感じたくないのに、どうしたらいいの?

自分の中にある、名前がつけられない、たくさんの不快な感情たちの実態を、初めて教えてもらったのがエヴァだったように思うのです。

ここから、ちょっとネタバレが入りますが、今回の映画で一番の肝は、父親ゲンドウと息子シンジの対峙だったのではないかと思うのですね。

これまでの作品では、一度もなされなかった「父と息子の本音の対話」であり、その対話を通じて、愛されたいと切に願いながらも憎しみの対象になっていた、自分を捨てた父親の本当の気持ちを、息子がついに知ることになった。

そこでわかったのは、シンジが抱えてきた寂しさや孤独、居場所の無さ、無価値感などは、まさにゲンドウが持っていたそれと同じものだったということ。

劇中で、ミサトさんが

「父親に息子ができることは、肩を叩くか、殺してあげることだけよ。」

という衝撃的なセリフ(!!)をシンジに伝えるシーンがあるのだけど、今回の物語はまさに「父殺し」であり、父親という権威を乗り越えて、精神的にも肉体的にも大人になる話だったのですね。

また、今回の映画では明言するシーンは無かったけれど、マンガ版では

「生まれた瞬間から、母親の…ユイの愛情を一心に受けるおまえが妬ましかった」

とハッキリ言っているところから、もしかしたらゲンドウも自身の母をユイに重ね見ていたのかもしれません。

だとすればゲンドウとシンジの間の心理的葛藤は、まさにエディプスコンプレックスの図式だったのでしょうね。

それは、シンジが父を殺す物語であり、ゲンドウが母を奪い合う物語でもあったと。

そして、ゲンドウが乗っ取った全人類を巻き込んだ壮大な計画の唯一の目的は、消えてしまった最愛の妻ユイに再び出会うことだったわけですが(超絶自己中やな!!笑)

ゲンドウが目を背け、遠ざけようとしてきた息子の中にこそ、ユイがいたのだということに今回ようやく気付いたわけです。

ゲンドウの「自分の弱さゆえ、ユイに会えない」という台詞は、妻の死を受け入れられない=妻の残した忘れ形見と向き合うことができない…つまり、息子の中にあるユイの面影に気付けなかったということなのかな、と感じました。

私は女子なので、母親との葛藤でずいぶんと悩んできたけれど、男は男で同性同士の葛藤があるものなのね…。

今回、シンジはゲンドウの独白を聞き、父親の弱さに直面することで、父親が強大な敵でも絶対的な神でもなく、一人の人間であったことを知れたのでしょう。

だけど、その時のシンジはもう既に、自分自身が築いてきた人間関係の中で、色々な人の様々な思いに触れ、受け止めてきたことで、いつの間にか父親の承認がなくとも、自分の足で立ち、自分の人生を自分で選び取る覚悟を持てるようになっていたのだと思います。

だとすれば

「大人になったな、シンジ」

という言葉は、シンジが父から受け継いだ心理的呪縛を解き、無価値感の世代間連鎖を断ち切ったことへの祝辞のようなものだったようにも思えるのです。

そして、シンジが最後に望んだ「エヴァンゲリオンの無い世界」というのは、エヴァンゲリオンに乗ることがパイロットにとって自己価値の証明であったことから(エヴァンゲリオンに乗れば他者から認められる、褒められる=自身の存在意義であり存在価値になっていた)

他者からの承認を得ずとも、自分で自分に価値を与えられる自分としての人生、なのかな?と思いました。

外側に自分の価値を証明するための何かがなくても、他人にその価値を認められることがなくても、自分が生きていていい、そこにいていい、自分を好きになっていいと、自分で許可を出せること。

つまり「大人になる」ってことは、自分で自分を肯定し、自分軸で生きていくこと、そのものなのかもしれないな。

それは自分の面倒を自分でみれるようになることだし、自分の選択に責任をもって生きていくことでもある。

これもまた、「言うは易し、行うは難し」の典型ではあるけれど、そのための通過儀礼として、親を一人の人間と認め、精神的に超えていくということが必要なのかもしれませんね。

愛着と憎しみの対象であり、壁でもあった父親を、息子がついに乗り越えることで、物語は完結したのでしょう。

冒頭で、「そっか、私はもう大人だったんだ。」と気付いたと書きましたが、今回映画を見て気付いたのは、私はもう登場人物たちの心の痛みに自分を同化していない、ということだったのでした。

もっと客観的に、彼らと彼らの物語を見ている自分に気付いたし、むしろ彼らの成長を見守る母親的な視点になっていることに気付いたんです。

そりゃそうか。高校を卒業して、一体何年経っていると思うんだ。いつまでもガラスの10代だと思うなよ。(笑)

だけど、私は物理的に母親という立場になったけど、子どもを産むことだけで突然大人になれるわけではないと思うのです。実際、上の子を産んだ時には、まだまだ私のインナーチャイルドは痛みを抱えて、「私なんていない方がいいんでしょ!」と暴れまわっていたので。

そこからの数年の間に、私は自分の自己肯定感の低さを連鎖させたくない一心で、自分の価値や存在意義を肚を括って認めるために奮闘したつもりです。

そして、私の現実を生み出す認識の原体験であり、諸悪の根源ともいえるべきオカンとの心理的な葛藤や癒着を、ようやく手放したのですね。

それは、エヴァの登場人物が抱えていたのと同じ、見捨てられ不安と承認欲求を乗り越えて、自分の足で自分の人生を生きていくと決めること。

マズローの5段階欲求説で言えば、ようやく自己実現のステージに進んだということかしら。

▼解説は他力本願がモットー

自己肯定や自分軸の確立は、まだまだ途上ではありますが、身を切り刻むような無価値感の痛みは、気付かぬうちに、客観視できるくらい過去のものになってたみたいです。

その感覚はまさに

「大人になったな、サトヒ」

と言えるようなものだったのです。

私はいつの間にか、愛を求める側から、愛を求められ、与えられる側になっていたみたいです。

もちろん、私の中に愛を求める子ども(インナーチャイルド)は永遠に存在し続けるのですが、その子どもの自分を慈しみ、愛を与えることができるようになりました。

それもまた、「大人になる」ことの一つの結果なのかもしれないなぁ、と思うのです。

自分で選び取る真実

最後に、スピ的な視点での講釈を垂れてみると。

ゲンドウが人類補完計画を通じて求めた世界は、個としての私たちが死んだときに還る場所そのものなのではなかろうか。

ATフィールドの存在しない全てが等しく単一な人類の心の世界

他人との差異がなく貧富も差別も争いも無い、虐待も苦痛も悲しみもない

浄化された魂だけの世界、そしてユイと私が再び会える安らぎの世界

私たちが神と呼ぶ、全ての意識の源だけが存在する世界。

陰陽すべてが溶け込み、その区別がない世界。

そこにあるのは、ただ「愛」だけ。

他者に怯え、孤独に苦しみ、生きることに絶望しきったゲンドウは、その世界の実現に唯一の希望を見出していたけれど

同じ痛みを抱えていたはずのシンジは、最終的にその世界を望まなかったんですよね。

自分と他人が区別され、光と闇が存在し、苦しみと喜びが同時に存在する世界で、生きていきたいと願った。

その中で、他人との関わり合いの中で、自分としての経験を積み重ねていきたいと願った。

シンジは、「神の子」と書いてシンジなんて説もあるけれど、”シンジ”という存在は私たち一人ひとりそのものなのかもしれません。

スピ的には、私たちは神から分離された魂(神の子であり、神でもある)で、自分の体験する現実を、自分で選ぶことができると言われています。

私たちの人生は、自分の思考や感性によって出来事が解釈され、それがその人にとっての真実になり、その真実を元に次の行動が選ばれて、人それぞれの現実世界として作られたものです。

それが、生きている世界は同じように見えても、人の数だけ違う現実があるということ。

だから私たちは、いつだって自分に居場所を与えることもできるし、自分の価値を見出すこともできるし、自分に愛を与えることもできるのです。

自分にとって居心地の良い場所と、自分にとっての心地よい生き方を、自分で選び取っていくことができるんですね^^

他人(親)の望む世界ではなく、自分の望む世界を生きるために、自分で自分に承認を与え、自己肯定感を高めて、自分軸を確立し、人生を自分の足で歩いていく。

エヴァンゲリオンという長い物語の中で、シンジという存在が進んできたのは、まさにそのプロセスだったように思うのです。

それが、大人になる過程であり、自分らしく生きるということなのかもしれないなぁ、としみじみ感じさせられた映画でした

…ということが言いたかっただけなのに、相変わらず長文&理屈フィールド全開でスマソ!(笑)

ではまた!

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