自己肯定したいアナタのための処方箋シリーズ④ 自己肯定とはつまり、自分への許しなんじゃないだろうか

自己肯定感と自己受容

愛あるみなさま、こんにちは!

無我修行期間(子の長期休み)が明けて、少しずつ日常を取り戻しつつあるサトヒです。

私事ですが、20日に内輪向けのミニ講座というのをやる予定があって、その資料作りにヒーヒー言ってるんですが

忙しい時期ってわかってるのに、予定を詰め込む傾向があるのは、いわゆるハードワークってやつなんでしょうか…?

夫氏に言わせれば、「規定容量100リットルのボールに150リットル入ると思い込んでる、多大なる勘違いが引き起こした問題」と再び一刀両断されそうだ…。

しかし、出かける時とかもギリギリの電車を狙うタイプなので、なんでもギリギリな感じが好きなのかもしれない。(だから、遅刻魔なんですけど→間に合ってない)

ギリギリで綱渡りしてる方が、生きてる実感があるのかもしれないと自己分析してみました。(笑)

ということで、忙しいことを理由に全然告知できてないのですが、調子に乗って増席したグループセッションが全く音沙汰ありません!!(笑)

もしかしたら少人数でゆっくりセッションできちゃうかもなので、ちょっと迷ってることがあったり、心理学的な見解を聞いてみたいことがある紳士淑女の皆様はぜひいらして。(キャロ先生風に言ってみた)

自己肯定とはつまり「許し」

さて、本題の自己肯定感シリーズですが!

自己肯定は、「今の自分」にOKを出し続けることだと前回のブログで書いたわけですが

自分に対してOKを出したり、しゃーないと思ったり、「これが私」と受け入れることって、つまるところ

自分を許す

ってことだよね、と思いまして。

完璧主義も理想主義も、結局は完璧でない自分、理想的でない自分を許していないわけで。

なにかしら自分に対して「こうあるべき」というものがあって、それ通りじゃない自分を嫌ったり、存在を否定したりしてる。

だから、こうあるべきじゃない自分を隠そうとするし、こうあるべき自分だけを出そうとして、自分自身をコントロールして演じてしまうんですよね。

それが、どんどん自分を窮屈にして、素直な自分が出せなくなって、自分が本当は一体誰なのかがわからなくなっていくのです。

よく、「本当の自分」とか「ありのままの自分」というけれど、それって自分の良いも悪いも、正しいも間違ってるも、好きも嫌いも含んだものだと思うんです。

(「本当の自分を隠してる」なんてん表現をするから、なんだか「闇」の部分だけが「本当の自分」のような感じがするかもしれないけど、もちろん「光」の部分も本当の自分です。)

自己肯定は、”そんな色んな側面を持っている自分を清濁併せ吞む姿勢”ってことなんじゃないかと思うのです。

分断された自分

じゃあ、なんで自分の一部をそれほどまでに強く否定したり、許せなくなってしまったのかなぁと考えてみたのですが

周りの大人の考えや自分の経験、一般常識的な思想によって、「あるべき姿」と「あるべきでない姿」を思考的に学んだことで

自分という存在が、正義と悪に分断されてしまったせいなのではないかと思ったのです。

「悪」はあくまで「悪」なので、到底許すことは難しいものです。

それを許すということは、自分がずっと信じてきた「正義」を覆すことにもなりかねない。

そもそも、自分の中に「悪」が存在していることが罪悪感にもなりうる。

優しくなれない自分

頑張れない自分

役に立たない自分

価値を生み出さない自分

必要とされない自分

だらしない自分

元気じゃない自分

何もできない自分

そういうのは全部「罪」であり「悪」となって、否定や攻撃の対象となってしまう。

自分が否定・攻撃する分、心はそれを外側に投影するので、他者からも否定・攻撃されるような気がしてしまう。

だから、私たちはそんな自分をいないものとして隠そうとしてしまうのですよね。

内側で巻き起こる勧善懲悪の戦い

世界というのは2元性(相対的な要素がセットになっていること)で成り立っているわけなので

相反する2つの要素を比べて、どちらがいいだの悪いだのジャッジしてしまうのは自然なことなんだと思うんですよね。(にんげんだもの…)

だけど、世の中のエンターテインメントも段々と”勧善懲悪”というのが少なくなって、何が正義で何が悪なのか、簡単に判別できないようなキャラクターが増えていたりしますよね?(具体的に思いつかないけど…)

敵だと思っていた相手の立場に立ってみれば、相手には相手の主義・主張や正義があったりする。

それが一般論だったり多数派じゃないから、「おかしい」とか「ダメ」とか叩かれているだけだったりして。

裏にある相手の想いに気付かないから、行動だけを見て「悪」のレッテルを簡単に貼ってしまうわけですが

その想いを知ったら、どっちが正しいのかがあいまいになることって、実は結構多いと思うんですよね。

(もちろん、そういう曖昧さを切り分けるために法律とかがあると思うのですが)

簡単に良い悪いと判断しちゃってる時って、実は結構視野が狭くなっていたりすると思うのです。

だけど、少し視点を上げて全体性に目を向けると、意外と自分が悪だと思っていたことが一概に悪だと言えないものだと気付いたりする。

何が良くて何が悪いかなんて、完全に主観の問題でしかないので、その主観が変われば捉え方は一瞬にして変わるわけです。

▼昔書いたこの話に通じるものがある気がする

人が人として安全に安心して生活するために、お互いに最低限守らなければいけないルールは存在すると思っていますが(人を殺しちゃダメとかさ)

そうじゃないところで善悪を裁きすぎることが、窮屈さや不自由さ、生き辛さを生み出しているのかもしれないなぁと思ったりしました。

そう考えると、自己否定って自分の中の戦争みたいなものだったりするのかもしれません。

あれ、ちょっと話が飛んじゃいましたかね?(笑)

自分を許すための理由を探し続けよう

罪悪感の大原則として、「罪悪感と愛は表裏一体」というものがあります。

自分が許せないのは、本当は助けたい誰かがいるからかもしれないし

本当は喜ばせたい誰かがいるからかもしれないし

本当は幸せにしたい誰かがいるのかもしれません。

だからこそ、それができない自分をふがいなく、罪深く感じてしまう。

だとしたら、「あるべき姿」じゃない自分ばかりに目を向けるのではなくて

誰かや何かのために「あるべき姿」になろうと頑張っている自分に目を向けてあげることができたら

今よりほんの少しだけ、自分を肯定することができるようになるかもしれない。

結果的には、誰も喜んでないし、迷惑ばかりかけてるし、役に立ってないし、できてないことばかりかもしれないけれど

結果だけじゃなくプロセスを見てみたら、そこには何かしらの「愛」が見つかるかもしれない。

誰かを思う気持ちが、頑張ろうとする姿勢が、見え隠れするかもしれないし、

ダメだと思っている自分が存在するからこそ、周りに与えられる恩恵というのがあるかもしれないし、

だとしたら、「これが自分だからしょうがない」って少しは思えるかもしれない。

そう、「しょうがない」は許しの究極魔法なんだと思うのです。

自分を「しょうがない」って思ってあげるために、自分を愛の側面から見てあげる。

自分に対して、感情的理解を向けてあげる。

勧善懲悪で自分を裁くのではなく、自分がダメだと思っている自分の主義・主張に耳を傾けてみたり、それがもたらす恩恵のようなものに広く目を向けてあげる。

それが、自己肯定感を上げる大きなステップの一つになるのだと感じています^^

理想通りではない自分の表面だけでなく、ほんの少しだけ視点を高くして、その裏側にあるはずの愛や恩恵をもっと評価してあげてくださいね!

【今日のひとこと】

自己肯定とは「良い・悪い」の二元性を「自分」という枠組みで一つに統合することであり、それが結果的に世界平和にすらつながる…のかも!

▼しつこいですが、視野を広げたい人にもオススメのイベントでございます!

あなたの自己肯定感向上活動にとって、何らかのヒントになれば幸いです。

ではまた!

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