【爽やかな性格になりたいです】
自分が感じている、「自分はこんな人」という定義を誰かの言葉によって書き換える必要はありません。それがネガティブなものなら、なおさらです。
実は”言葉”というのは、その定義づけによって意味や認識が変わってしまう、とても不安定なものです。
せっかくの唯一無二の、個性的な自分らしさが、誰かの言葉でかき消されてしまうのは、とてももったいないことだと思うのです。
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ココロノマルシェにご相談頂いた内容に回答しています!
こんにちは!
皆さまのご相談に比べ私の悩みは深刻度が低いようで躊躇したのですが思い切って失礼します。
わたしは自分の性格の悩みがあります。
よく「クセがつよい」「アクがつよい」と言われたりします。少し前に言われた「クセ者」には、内心めちゃくちゃ傷ついて、それを言った人も怖くなったし、それを伝えて来た友達のことも少し嫌いになってしまいました。
「クセがつよい」「アクがある」という雰囲気や性格は、どういう原因や要因で形成されるのでしょうか?
また、無くすのは無理でも軽減するのことは可能でしょうか?
当たり前なのですが、1人で居るときは、まったく無自覚で、自分が根っからそういう人間にも思えないと言うか。。。
なんで、人と接するときにそういう雰囲気になってしまうのか、悩ましいです。
爽やかな人達がとてもうらやましいです。こういう嫉みそねみが、ネットリとした爽やかじゃない雰囲気や言動に繋がってるのかもしれませんね。。。
上に意識していると書きましたが、わたしは自意識がうすいほうみたいです。もっと人目を気にした方がいいと言われたこともあるし、人見知りはしないし、初対面の人でも何度も会ってる人と変わらず話せます。
そういうのも関係してるのでしょうか?
ご意見お聞かせいただけたら幸いです。
何卒よろしくお願いします!(あくりるさん)
「自分らしさ」をとことん追求する、ライフワーク研究家サトヒです!
深刻度に高い低いもないですから、聞きたいことがあれば、どんなことでもウェルカムですよ~。(回答できるカウンセラーがいるかどうかの保証はないのですが、それもまたご縁です。)
自分にとって悩ましいことは、自分にとって重要度が高いことなのです。自分の気持ちを大切にしてあげてくださいね^^
ちなみに、私の友人にも「よくクセが強いって言われる」なんて風に言っている人がいるのですが、私がその人を見て感じるのは「自由さ」なんですよね。
なんというか…
ぶれない自分軸。
自分らしさに嘘をつかない感じ。
ありのままの自分にOKを出している感じ。
それって、めちゃくちゃかっこよくないですか??
だから、他人軸になりがちな私にとってはすごく憧れで、自分らしく人生を生きていて、素敵だなっていつも思ってるんです。もう、本当にうらやましい。
日本人って、つい「他の人と同じ」で安心しがちな生き物なので、あまり個性を出すことを良しとしない文化があるというか。
なので、自分を思いっきり出す人を、物珍しい目で見がちなのだと思います。
それが、「クセの強さ」という言葉で表現されているように感じるんですよね。
ある意味、クセとかアクって表現されるものは、「個性」そのものだと思うのです。
そして個性って、その人らしさそのものなんですよね。
ただ、長所短所は表裏一体ですので、”自分軸”というのは、すごくマイペースで、周りからどう思われるかを気にしないので、積極的に人に合わせようとはしないことでもあるので
先ほども書いた通り、他人に合わせることを無意識に良しとする日本人の国民性からすると、すごく浮くというか、突飛に見える可能性はあると思うのです。それは、ある人にとっては、短所的側面に見えることもあるのかもしれません。
ただ、あくりるさんに対して「クセがつよい」「アクがある」といった人が、それに悪意をこめているとは思えないんですよね。
その個性的な様を、表現する言葉がそれしかなかったのかもしれません。
つまり、個性的というのは、唯一無二ということでもあるので(人は誰でも唯一無二な存在ではありますが)、それをありきたりな言葉では表せなかったんじゃないかなって思うんですね。
だとすれば、それはあくりるさんにとっての「クセがつよい」「アクがある」という言葉の受け取り方と、それを発した友人の言葉のイメージに単純に差があっただけなのかもしれません。
そこは、どういう意味で言ったのか、友人の言葉の定義を、もう少し深堀して聞いてみないとわからないんじゃないかな?と思いますよ~。
ちなみに個性についての考え方は、こちらの記事にも書きましたので、ご参考まで^^
ということで、えつこカウンセラーのズバっと一言風に言うと
「そんなに気にしなくていいよ!褒め言葉として受け取っちゃえ!」
ってことになるのですが。(笑)
>当たり前なのですが、1人で居るときは、まったく無自覚で、自分が根っからそういう人間にも思えないと言うか。。。
そりゃそうですよ、どんな自分の要素も、比較対象がなければ表現できないものです。
背が高いのも、自分より低い人がいるから。
気が長いのも、自分より短い人がいるから。
積極的なのも、自分より消極的な人がいるから。
どちらが悪いというのではありません。それは性質の分量の違いです。
おそらくですが、人の要素というのは、一般的な平均値と比べて、それ以上かそれ以下かで表現されているだけなのではないかな?と思うのです。
でも、自分しかいなければ、自分が”絶対”なので、クセがつよいもアクがあるも、何も存在しません。
そこにあるのは、ありのままの「あくりるさん」そのものです。
本当は、いつだって存在しているのは、ありのままのその人だけなんですけどね^^
私たちは、比較することでしか、自分自身を定義できないものなのです。だから、比較はやめられないものだし、自分を知るために必要なことでもあるんですね。(やりすぎると嫉妬とか自己否定の元にもなりやすいので、用法用量にはご注意ください。)
ということで、あくりるさんが感じている、「自分はこんな人」という定義を誰かの言葉によって書き換える必要はないと思うんです。
しかも、それがネガティブなものなら、なおさらです。
実は”言葉”というのは、その定義づけによって意味や認識が変わってしまう、とても不安定なものです。
だから、そんなに気にしなくてもいいんじゃない?ってことなのです。むしろ、自分の好きに定義づけしちゃえばいい類のものなのです。
で、あくりるさんにとっては「クセがつよい」「アクがある」の対義語が、「爽やかな人」ってことになるのかな、と思ったのですが
「爽やかな人」ってどんな人ですか?
嫉みそねみがないことだけですか?
自分が爽やかだな、と思う人をもう少し観察してみると、何か気付くことがあるかもしれませんね^^
もしかしたら、人に言われたことを気にしている自分のネガティブな気持ちが嫌だなと感じているだけかもしれません。
だとしたら、それはしょうがないんです。
だって・・・
にんげんだもの byみつを
誰かに何かを言われて傷つくこともあるし、相手にネガティブな思いを向けてしまう自分にがっかりすることもある。
相手がどういう意図で使った言葉かはどうであれ、あくりるさんは傷ついてしまったんだもの。
その気持ちには、しっかり寄り添ってあげましょう^^
自分の心の言い分をしっかり聞いて、悲しい気持ちを受け入れてあげてくださいね。
でも、本当にあくりるさんは「爽やかな人」になりたいのかしら?
それって、なんだかあくりるさんの素敵なところが、消えてしまいそうな感じがしませんか?
せっかくの唯一無二の、個性的な自分らしさが、誰かの言葉でかき消されてしまうのは、とてももったいないこと。
人の中に、素敵な要素を見て、それを自分の要素として受け入れていく、というのは、自分の枠を広げるために、とても役立つことです。
でもそれができるのは、ありのままの自分を受け入れてこそ。
自己肯定という土台があるからこそ、それ以外の要素を自分らしさとしてうまく吸収していけるのだと思うのです。
自分の良いところをしっかりと自覚した上で、もっとここをこうしたいという取捨選択をしていく方が楽しくないですか?
そもそも、性格というのもまた、実体の無い、自分に対する「定義づけ」でしかありません。
自分が自分をどう思っているかが、「性格」と呼ばれるものを形作っています。
だとしたら、いくらでも性格なんて変えられちゃうんです。
そこで大事なのは、自分にとって何が居心地が良いのか?ということ。
どんな自分が、自分にとって居心地良い自分なのか?を大事にしてください。
今まで通り、自分の個性をありのままに受け入れて、自分軸でマイペースな自分であるのか
それとも、あくりるさんが考える「爽やかな人」として、友人に「クセがつよい」と呼ばれずに済む自分であるのか
あくりるさんにとって幸せなのは、どちらでしょう?その自分の気持ちを、大事にしてあげてくださいね!
あくりるさんが、ありのままの自分を受け入れ、唯一無二の自分らしさをもっともっと愛せることを心から祈っています!
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