いい子の闇を人体実験的に解説する話【子ども心と相互依存編】

心理分析

自己探求大好きなみなさま、こんにちは!

サトヒです。

自分で発注しといて、いざ届くと玄関前で「いらねっす」と突き返す、自作自演の送り付け商法的な話の続き。

▼前回の話はこちら

見たくなかった依存心

”「承認欲求」ってなんやねんと思いを馳せていたら、これまたもっとでかいものを掘り当ててしまった”

なんて、匂わせ感満載の営業手法で引っ張ったわけですが。

よく考えたら当たり前の話なんですが、承認欲求ってつまるところ

「依存心」

なんですよね。

心の成長プロセスは、「依存→自立→相互依存」と進むと言われていますが

依存期に、十分に依存心を満たせて自立できているなら問題ないのですが、「自立系武闘派」と呼ばれる人たちの多くは、依存期に十分依存できないまま、依存心を押し殺して自立している場合が多いんです。

私はまさにそれで、未だに無価値感が強いわけですが、その分自分の価値を誰かに認められたい気持ちを、実は、強く、色濃く、隠し持っているわけです。

なんだけど、色々心理学を学ぶ中で、「自分で自分の価値を認めないと、どんなに人から認められても受け取れないんだから、自分で自分を認めないといけないんだぜ」なんてことを知識として知っちゃっているが故に

「人から認められたって、自分で自分のこと認められてないなら、どうせ意味ないし」

と卑屈な心で、自分一人でどうにかしようと思いすぎていたことに気付きました。

それがなぜかと言うと、自分の中で「依存」は敵だったからです。

自分の依存をめちゃくちゃ嫌ってる。だから、依存をめちゃくちゃ隠してるし、それを恥とすら思ってきた。

だから、自分の承認欲求はみっともないし、恥ずかしいし、感じたくもないし、見たくもないし、自分一人でこっそり処理すべきものだと思い込んできたんでしょうね。

だけど今回。

そんな自分の承認欲求的な気持ちに耳を傾けてみたら。

認められたいよねー

愛されたいよねー

すごいって思われたいよねー

かわいいって思われたいよねー

だって、そのために「いい子」で頑張ってきたんだもんねー

って、そう思ってあげてみたら。

「そりゃそうか」ってストンと付き物が落ちたように、私の恥ずかしさが天に還った気がしたのです。

いい子で頑張るのも、いい子だねって褒められたいからだし

私こんなことしたんだよ!とアピールしたいのも、私の事を見てほしいからだし

私はこんな人だよ!って自己表現したいのも、自分らしさを認めてもらいたいからだし

自撮りでキメ顔したり、撮る前に化粧直ししたり、撮った写真を一生懸命加工処理するのも(笑)、少しでもかわいいって思われたいからだし

そう思われたくてやってるんだから、人からそう思われたっていいじゃん。

褒められたくて頑張ってるんだから、褒められたっていいじゃん。

だって、その通りなんだもの。何も恥ずかしくないし、全然悪くないよ。

素直にそう思えたんですよね。

もちろん、本質的には自分を自分で認めなくちゃ、どんなに他人が自分を認めてくれても受け取れなかったりするけれど

別に、他人が認めてくれる気持ちをそのまま素直に受け取って、自分の糧にしたっていいわけで。

愛と勇気だけが友達のアンパンマンみたいに、自分一人で全てをどうにかしなくちゃいけないわけじゃなかったんですよね。(いや、実際のアンパンマンは仲間がおるで)

報われなかった子ども心を救う

承認欲求的な依存心を自分の中で感じていた時、イメージとして浮かぶのは”子どもの自分”だったんです。

子どもの自分が、「こっちを見て!もっと褒めて!もっと愛して!」って言ってる感じ。

注目されたくて、気を引きたくて、喜んでもらいたくて、愛してもらいたくて、一生懸命「いい子」でいようとする子どもの姿。

ああ、そうか。依存心って依存時代に報われなかった私の心だったんだっけ。

今、自分のリアルな子どもたちを見て思うのは、やっぱり子どもって親の注目を引きたいし、自分を見て欲しいし、話を聞いて欲しいし、褒められたいし、愛されたいって思う生き物なんですよね。

その純粋で自然な気持ちを、私は恥ずかしいもの、恥として封印してきたんだなぁと改めて理解できたんです。

そう思ったら、なんだか私の内なる子どもの自分がかわいそうになっちゃって。

こんなに純粋に愛されたいと願う心を、私は随分抑圧して、いじめてきたんだなぁ。

なんてかわいそうなことをしてきたんだ。

私が依存を隠してきたのは、自分の期待が叶わなくて傷ついた記憶から、もう二度と傷つくまいとする防衛手段だったわけだけど

期待が叶おうが叶うまいが、そう思うこと自体は自由だし、ダメなんてことはないんだよね。

その気持ちを、大人の私がわかってあげる。その気持ちを、大人の私が認めてあげる。

それだけで、きっと良かったのに。

私は、その依存心を、ちょっと開いちゃったシュールストレミングの缶詰をマントル層に埋めるが如く、自分の中から無かったものとして排除しようとし続けてきたんだ、と思った。

”依存”で嫌な思いをしたことがある人ほど、もう”依存”のせいで傷つきたくないと思うから、自分の中にあるその存在を全力で否定したくなる。

その結果、過剰に自立に傾くことで自分を正当化して、心を守ろうとしてしまうものなんですよね。

つまるところ、私にとって「依存」こそが闇だったのです。

依存を弱さとして嫌うから

自分の完璧さや理想に固執するし

正しさを証明したくなるし

主導権争いをしたくなるし

助けを求められないし

自分一人で抱え込むし

結局は燃え尽きて灰になるまで頑張っちゃうわけですよ。

今更、絶対に、依存という闇に落ちるものかと、自立という強さにしがみついて、孤独に戦い続けてしまうんです。

そう、だから私は”依存系武闘派女子”なんですよ。きっと。

だったら、もう開き直って堂々とそう名乗ろうか。

うん、そうしよう。そして、商標登録もしよう。(するか!)

自立を手放すとは、依存を受け入れること

でね、冒頭で

心の成長プロセスは、「依存→自立→相互依存」と進む

と書いたわけですが、「相互依存」って、そもそも「依存」ですやん。

ベースは「依存」なんだ、と気づいちゃったんです。(え?今更とか言わないで)

よく、「相互依存」に進むためには、「自立」を手放せなんて話があるんですが

「自立を手放すって、どういうことやねん」

って、ずっと思ってたんですけど。

今回、自分が依存心(承認欲求)を嫌っているが故に、他人の依存心(承認欲求)をも嫌っているということに気付いたわけですが

そうか、「自立を手放す」っていうのは、自分の依存心を自分で受け入れてあげることなのかもしれない…!と思ったのでした。

(個人的な見解なので、正しい理屈は知らない)

自分が依存を受け入れないから、相手の依存を受け入れられない。

だから、お互いに自立の権力争いをしてしまう。

でも、「相互依存」に進む=お互いに助け合うには、自立した自分が自分の依存心を受け止めてあげる必要があって

それができれば、自然と相手の依存心も受け入れられるようになるから、お互いに支え合う「相互依存」のステップに進めるってことなのかもしれない…!

オーマイガ!!!!(3回目)

与えることが受け取ることになって、受け取ることが与えることになる。

そんな循環がうまく回り始めるためには、自分がちゃんと「欲しい」気持ちに正直になる必要がある。

そのためには、「欲しい」と思ってる自分の子ども心=依存心を大事にしてあげなあかんのや!!!

よく、我らがおシショー様が

「欲は大事だぞ!欲を持つのじゃ

とありがたい教えを説いてくださるのですが、私、本気で

欲がよくわからなかった

んですよねぇ。(もちろんシャレです)

でも、今回自分の依存心=子ども心を受け入れてみて感覚的に気付いたのですが、「欲」って子ども心から湧き出るものなんですよね。

子ども心は、感情や感覚の部分とも密接につながっています。

いや、純粋な感情や感覚そのものとも言えるのかもしれない。

私は、自分の依存心を隠そうとするがあまり、過剰に思考的になってしまっていたのですが

それって、大人の自分が自分の子どもっぽさを嫌うのとすごく似ている感じがして。

依存心を隠そうとするがあまり、自分の純粋なワクワクの源泉みたいな、子ども心が押さえ付けられていたような感じがして。

だから、私は「欲」を見失っていたのかもしれないなぁ、と思ったのです。

だとしたら、依存心=子ども心を自分で受け入れれば受け入れるほど、もっと自由に夢を描けるし、もっと人生を楽しんで生きられるようになるのかもしれません。

それこそ、子どものように、純粋に、無邪気に。

まあ、だからといって今すぐ

「万物の王にして天地をたばねる者として、わが名をそなたらのむくろに永遠にきざみこんでやりたい…!!!!」

的なラスボス的強欲が出てきたわけではありませんが、なんだかちょっと自分のこれからの変化が楽しみになりましたYO!!

(ちなみに、感情・感覚は女性性の性質でもあるので、依存と女性性って実は密接なつながりがあるんでは?と思いつきました。この話は、またいつの日か別記事にて。)

闇を晒したところで、私はいい子だった

ということで、私にとっての「いい子」というのは、褒められ、認められ、愛されるための役割の仮面(ペルソナ)だったわけですが

そのペルソナの奥にある闇と対峙し、ペルソナを外してみたところで

結局は「いい子」のままだった!!!!

ということが自分でわかりました。(笑)

別に、ブラックサトヒの闇を認めても、私は人畜無害ないい人のままだったんですよ!!!(声を大にして自画自賛する)

だって、依存心なんて誰の心にも自然とあるものなんだもの。

先日、カウンセラー仲間のスズキチサちゃんに

「いい人は才能です!」

という名言を頂いたところだったので

私はこれからも、いい子のまま突き抜けていいんじゃないかと思っております!!!!

つまるところ、勇気を出して闇を受け入れて白日の下に晒してみたら、全然闇じゃなかった的なつまんないオチやで!(笑)

これにて、懺悔ブログは終了DEATH!!!!

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